小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

狂二 Ⅲ 断崖編 その8

先週替えたばかりの 畳表の匂いが栗原の鼻梁をつく。 この匂い 何度嗅いでも好きだと思う。 空手道場で畳敷きはめずらしい。 白浜冷凍、坂本社長が私費で開いた道場。空手を母体としているが、時に柔道の寝技や、関節技も取り入れるので 途中 板敷きから柔道畳を敷くようになったのである。

広い道場にたった二人だけの熱気が早朝から発せられていた。 「はっあ」 気合いもろとも坂本の右からの上段蹴りが 栗原の首を狙う。

「つあっ」 左腕でガード、坂本の右足をブロック。 その右足が降り下ろされるタイミングを逃さず、栗原の左手正拳突きが坂本の胸元を狙う。

今度は坂本の右肘がガードする。。。


「白冷館」の道場。壁に掲げられた大時計がまもなく8時を指そうとしていた。

「よしっ これまで」 坂本の声が道場の空気を裂く。 「ありがとうしたっ」 「最後の最後に 腕上げたな」 中央で一礼をすると 坂本は額の汗をぬぐった。 「いえ、まだまだ大将の足元にも及びませんわ」 「はは、謙遜すな」 「謙遜じゃないですけん・・それより・・・」 一瞬の間をおいて続けた 「今まで本当にお世話になりました」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

五年前まで、和歌山市内に本拠を置く、 某組事務所若頭だった栗原は、借金の取り立てに、 白浜冷凍を訪問したのだった。白浜冷凍の従業員が闇金融に手を出していた。 「従業員に なんの用じゃい」 数名の組員を従え 乗り込んだ栗原を相手に 坂本が現れた。 恫喝に恐れることなく 堂々とした坂本。 栗原の話を聞き終わると、 「10万の借金が おまはんらの世界では 三百万になるっちゅうんかい。そんなアホな話聞く耳、持たんわ」 「なんじゃい こらッ」 「あ、よせっ」栗原の制止を振り切り 坂本の胸倉をつかむ若い組員。 「よしっ 来た」と 逆に手首を掴み取り、逆手に捻り挙げる。 悲鳴を上げる組員。 「なにすんじゃいッ」 周囲の組員が一斉に飛びかかる。 が、組員の手首を捻り上げたまま、坂本の素早い“蹴り”が炸裂。 飛びかかろうとした組員達も簡単に一蹴する。 「おい 栗原とか言うたな。元金の10万だけ返す。それで“ちゃら”や、 先に手ぇ出したのは お前らやけん、ええな。 ワシの事務所で騒いだコト弁償は請求せえへんけん」 それが出会いだった。 そして 渋々引き上げようとした時だった 「おい 待て おまはんの眼・・・」 「眼がどうした」 「澄んだ眼や・・・その歳でヤクザ稼業もないわな、足洗うんやったら いつでも歓迎するけん」 出会いと、まさかの一言が 栗原の人生を変えた。

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「今生の別れやないけん、そげな言い方はよせ。それより、ええか、 この道場は 栗原おまはんに任せるけん」

「・・・」 栗原は、うつむき右腕で目頭を押さえた。 「会社の方も、おまはんに任せるつもりやったんや」 「えっ」 「ただ・・・高城の兄ぃが、奴はナンバー2に貴重な人材だろが。って。 栗原が居たからこそ今のワシや白浜冷凍があったと。そして次の新社長も 任せられるのやないか・・・と。 そう云われて、ワシ何も反論できんかった、すまん」

「すまん、やなんて・・・頭あげて下さい。わし・・・自分でもよう分かってますけん」

「ええか、栗原。こらえろ、今度のトップはおまはんの息子みたいな若造や、 気にさわる事もなんぼでも出てくるやろ。 だが会社のため、ひいては自分自身の為や」

「それはもう・・・十分承知してますけん」

「そうか、ありがとう。 ほな いこら。そろそろ会社始まるけん。最後の朝礼や」

道場着を脱ぎかけ、坂本が振り返った。 「そや 大事な事云うの忘れとった」 「はぃ」 「新社長・・奴を道場に誘え」 「武道の心得が少々あるとか」

築港や、家島での出来事は栗原を始め、 一般の社員には知らせて居なかった。

「あぁ、奴は少々どころか、自己流やが凄い。一言で云うなら怪物ぞ・・ただ・・・打たれ弱いとこがあると見ている。腕が立つだけに、今まで本格的な打撃を受けた事がない・・・ それが唯一の短所やな」

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“特急くろしお”の程良い暖房が心地良かったのだろう。 すっかり眠り込んでいたが、車内放送が白浜を告げ、浩二は目覚めた。 (いよいよか) 3月下旬にしては、冷え込んだ大阪の朝だった。 病み上がりの躰には、こたえた。 果たしてここ南紀白浜はどうか。 空は青く澄み渡り日差しもたっぷり降り注いでいた。だが その割に、冷たい風が容赦なく吹き抜けていた。

南国にトレンチコートはないやろ。 云いながら、着て来、正解だった。 おもわずコートの襟を立てた。 ただ・・・潮の香りを含んだ風だった。

家島を思い出させるに十分な。 最初サヤカの笑顔が浮かび、秀治の赤銅色に焼けた顔が浮かんだ。 サヤカは家島本島の高校に通い、少林寺拳法の道場に通っている。 多美恵へのメールが踊っていた。

また、後で知ったのだが、中学校校舎でテロ外人に占拠されていた時、 唯一相手に手向ったという勇気ある同級生と一緒の道場との事だ。 その後の青春を謳歌しているコトに浩二は安堵した。

家島と同じ香りの風が、出発前に持った不安感をすっかり吹き飛ばした。

しばらくの間、寒風にさらされながら、ホームから視線を巡らした。

青い海原は見えなかったが、 間近にあるような気がした。

つづく

※ 当記事は フィクションですので 万一、実在するいかなる個人、団体とも 一切の関係はございません