2010年3月31日午前11時20分 南紀新報から教えてもらったその雑居ビルは、 図書館と直線距離にしてわずか400メートルもなかった。 だが、一方通行が多く、ここでも何往復かを余儀なくされた。 (コインパークにそのまま停めて歩いてきた方が早かったな) 車で来たことを佐々木は後悔した。 道路沿いに駐車スペースを見つけ、カローラを滑り込ませた。 (雨に駐車違反の取り締まりはないやろ)
第一紀伊田辺ビル かなり老朽化の進んだビルだった。 表門は当然のように、自動ではなく、重い扉を押し開けた。 暗く、カビ臭い湿った空気が佐々木の鼻腔を打ち据える。 天井の蛍光灯は一応点いているものの、頼りなく今にも切れそうだった。 玄関脇の入居会社が書かれたプレートを確認する。 外から見上げた時は五階建てだった筈だが、4階までしか刻まれて居ない。
それどころか、空きだらけで、空白が目立っている。 まるで廃墟ビルという印象だ。
4F 東南アジア貿易振興会のプレートを確認した。 一瞬躊躇したものの、とりあえず4階まで行ってみる事にした。 玄関正面のエレベータ。「呼」ボタンを押す。 グィーン。重苦しい音を奏でながら扉が開く。 得体の知れないすえたにおいが吐き出される。 (うっ、何なのだこの臭い)ハンカチで鼻を押さえる。 ようやく4階にたどり着いた。
扉が開くと、いきなり「東南アジア貿易振興会」の真新しいプレートが目に入る。 古ぼけたビルの中に、ダイキャスト製のプレートが浮きあがっていた。 まるで取って付けたがの如く。
佐々木は、その事務所はフロアーの奥にあるような予想をしていたので、一瞬戸惑った。 慌ててフトコロの防犯ブザーを確認する。 そいつはイザと言うとき、けたたましく大音量の警報が鳴り響く。 (廃墟のようなビルで果たして効果があるのだろうか) 単身で、得体の知れない場所に乗り込む時のお守りのようなものだ。
だが、ドアに組み込まれた模様入りガラス。透けて見えるガラス向こうに、灯りは無かった。 念のためドアをノックする。 しばらく耳を澄ましてみたが、応答は無い。腕時計を確認する。
お昼の休憩には早すぎる。 携帯から新聞社に訊いた電話をプッシュ。 だが、「お客様のおかけになった電話は現在使われておりません・・・」 南紀新報に訊いた番号を何度も確認するが、間違いはない。 再度掛け直し、同時にドアに耳をくっつけたが、勿論電話の呼び出し音は聞こえない。
無人の部屋。 使われていない電話。 事務所開設後、1ヶ月も経たない内に閉鎖したと云うのか。 じゃあ、あの表札プレートはどうなる。 どう考えても違和感がある。 長年働かせた刑事時代の勘を呼び戻す。 また雑居ビルと云いながら、ほとんど空き家だらけの古ぼけたビル。 こんなビルでの貿易振興会と云うのは多分に嘘がある。
要確認だな。 ビルを出ることにした。 エレベーターの横に非常階段の扉を見つけ、階段で降りることにする。 他のフロアーにもし入居者がおれば色々と様子を伺ってみたい。 だが、3階、2階、すべて留守だった。 留守というより、空き家だ。
1階にはシャッターが下りたままの部屋。ドアの上部には「会議室」と刻印されたプレートが取り付けられていた。 (一体、何なんだこのビル。駅前の一等地だというのに) 玄関ホールの足元に「定礎」が打ち込まれている。 しゃがみこんで確認すると 1955年3月1日とあった。 築55年か・・・ 「なんと自分と同じ誕生年じゃあないか。昭和30年。 当時とすれば斬新な五階建て高層ビルだったろうに」
玄関扉の向こう、雨は降り続いていた。 車から降りるとき水たまりに突っ込んでしまい、靴に雨が入ったままだ。 歩くたび、“ゴボゴボ”と音が鳴る。
はッ!。足跡・・・
ある事に気付き、もう一度、エレベーターに乗り込む。
腰をかがめ注意深く、床面を見る。
!やはり・・・・ エレベーターにも、4階フロアーにも複数の濡れた足跡が付いていた。
勿論自分の足跡もあるが、明らかに違っていた。
何人かが今日も、この部屋に出入りしているのは間違いない。 電話の通じない、灯りの消えた部屋に。
図書館に入る前、急ぎ足で舗道を歩いていた浅黒い男の顔を必死で思い出そうとした。 だが、ほんの一瞬だったので、ぼんやりした顔の輪郭だけしか浮かんでこなかった。
※ 黒い雨雲に隠れた太陽だったが、薄ぼんやりしたそれは、かろうじて上の方で光っている。 時刻は正午頃なのだろう。二人とも時計はハメていない。 男は「電波時計をしていた筈だが、どうやら身元の判明に繋がるモノ全て奪われたかも」 と言った。
昨日、苦労して集めたり、作った水。それに蛸や魚。 いよいよ最後の一口、一切れ、になった。 残り一本の薪を焚き火にくべると、 男はブルーシートをナイフで切り刻み始めた。
「おいおい」浩二が云うと 「まあ見とけ」
男はおおよそ60センチ四方に2枚分けたあと、 所々切り込みを入れる。すぐさま焚き火にシートをカザす。 熱でビニールが溶け始めると素早く指で押さえ、溶着していった。 何かの職人的手さばきだった。
「今度は一体、何が始まるんだ」 「まあ、よく見とけて」
切り刻みと、溶着。何度か繰り返していたが、 「まあこんなモノだな」 云いながらそのうち一つを頭に被ってみせた。
「あ、レインハット・・・」 昔、テレビで見たチューリップハットのような形をしている。
浩二も被ってみたが、悪くはない。見てくれは悪いが雨をしのぐには充分だった。
「これで雨合羽があれば言うことなしだが」 「簡単さ」 男は頭上のブルーシートを指さした。
テント代わりの役目を果たしたシートを切り裂いて行く。 両手を広げた程の長さにし、真ん中あたり、十文字に30センチほど切った。
切り裂いたシートを頭上に広げ、十文字の部分に頭を突きだした。
「そうかポンチョ」 「崖登りに、最初抵抗があるかも知れないが、ずぶ濡れになって体力を奪う事を考えると、これしか無い」
「なる程 ナイフを貸してくれ」 浩二も早速、真似し作った。 頭を突きだし、先ほどのハットを被る。
ゴワゴワ感が若干抵抗あるものの、雨に濡れる事を思えば、なんという事はない。
その時、薪の最後の1本が灰となって、火も消えた。
「じゃあ、そろそろ登るか」
「この浜 ともお別れだな」 「ああ、この浜のおかげで寿命が延びた」 住めば都と云うが、丸一日半、過ごした浜。 イザお別れとなって、妙な感傷気分が湧き上がるのが不思議だった。
残ったガラクタを片付け 浩二は頭を垂れ、両手を合わせた。
「ガラクタにお礼か」男が冷やかした。
「るせぇ」
そして、二人で 崖を見上げた。 一向に降り続いている雨が目に入る。。 風も半端なものじゃなかった。 果たして テッペンまで登れるのだろうか。
60メートル程。と男が言った目の前の崖は、とてつもない高さのエベレストの山に似て、そびえ立っていた。
※ 来る途中、コンビニエンスストアが有ったのを佐々木は思い出した。 立ち寄り、ダメもとで、聞いてみる事にした。
「いらっしゃいませー」 年輩の野太い声が響く。バイトではなく、店のオーナーかも知れない。 幸いにも店内に先客は居ない。 昼食にと、パンと紙パック牛乳を取り、レジへ
「しかし、朝からよく降りますな」 「予報では昼過ぎから降る、そげに言うてましたら、こないに朝から降って、 たまりませんけん」
案の定 大阪と違って、地方のコンビニエンスストアは客に対し、饒舌だった。
「大将、店は古くから?」 「へぇ、前は酒屋をやっとったです。せがれが、これからはコンビニの時代や、 そないに言って。東京本部の説得もそれはそれは熱心で。ほんでもって5年前に、転業したんですわ」
「それじゃあ、店は息子さんと」 「いやあ、それが肝心の倅は、東京のIT企業へ行ってしもうたままやけん、店はおっかあと二人だけですら」
「それはそれは大変ですなあ、ところで・・・」
本題を切り出した。
「そこの紀伊田辺ビルに用で出向いて来たんやが、どうやら留守みたいですのや、 何か知ってません?」
「あぁ、宇佐美先生のビルやね」
! 店主は 例の国会議員の名前を出した。
「え! ビルは宇佐美議員のでっか。かなり老朽してましたが」 「それがお客さん、この3月に改築の為、取り壊しが決まっとったです。 それが、急きょ1ヶ月だけ借りたい言う団体が現れましてのぅ。何でも、破格の賃貸料を提示してきたらしいですわ」
「詳しいですな」 「はぁ、これでも宇佐美先生の後援会副委員長やっとりますけん」 「じゃあ、ビルに入ってる貿易振興会の事も」
「実は、借主については、あんまり知りませんのです。先生も与党時代のコネで、アメリカからの案件で頼まれた。確かそないに云ってた思います。もっとも先生も2月以来 地元に戻って来ませんし」 「ただ・・・多分そこの職員さんじゃないかと思う外人さんが、店に来てくれてます」
「ほーぅ、その方は、ココの常連さんで?」 「ほとんど毎日のように。2、3人居られるみたいで、入れ替わり立ち代わり。 ただ一番愛想の良かった方、昨日から見かけませんけど」
「一番愛想が良かったと?」 「はい、愛想良い言っても、その方だけが日本語を喋れるんじゃないかと。で、なんやかんやと会話してただけですけん」
扉が開き 何人か入ってきた。
「あ、いらっしゃい」
何時までも邪魔をするわけには行かなかった。
最後に一つだけ訊いてみた。
「で、彼らは 良い体格をしてたでしょう」
「よくご存知で。うちに来るときいつも背広姿やけんど、筋肉は、はち切れてましたなぁー」
やはり・・・
「あ、そうそう 小一時間前にも来てくれてました。いつもより多目の食料やら飲料を買ってくれてましたけど」
「え!その方は 浅黒い顔の。。。」 「よくご存知で」
つづく
※ 当記事は フィクションですので 万が一、実在するいかなる個人、団体、地名とも 一切の関係は ございません
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