小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

狂二 Ⅲ 断崖編 その27

2010年3月31日午後0時10分

だが、 時計を持たない二人にとっては、正確な時刻など、知る由もなかったろう。

男が浩二の足元を見て云った。 「そのままじゃ、この崖は無理がある。脱いで、貸してみろ」 「安全靴で、丈夫だぜ」 「その丈夫さが、命取りだ。わずかな岩の窪みにつま先を突っ込む必要が出てくる。 その靴じゃ無理だ」

確かに云われて見ると、靴の先端は頑丈で、盛り上がっている。 ほぼ垂直に切り立った岩だらけの絶壁。 この靴で大丈夫なんだろうかと、一抹の不安がよぎっていたのも事実だ。 素直に靴を脱ぎ、男に渡す。 「どうにかなるのか」

何も応えず、しばらく男は靴を眺めていたが、 やがてナイフを甲の先端部分に差し入れた。 切り込みを入れ、鉄部分を露出させ、留め具を外し、鉄板を取り外す。 外したあと、革の部分をナイフの先を器用にあやつり、元通りに直していった。

次に裏返し、厚めの靴底部分をナイフで遠慮なく削り始め、先端部分は とうとう底無しになった。

「おいおい・・・」


初日に、作業服一式と、まっさらな 安全靴を用意してくれた年輩の女性事務員の顔が浮かんだ。 (たしか、名前は沢田さん。。)

「俺のも削っておこう」 男も黒皮の軍靴の底を削り始めた。

履いてみると、確かに軽くて、先端部分はしなやかさが出ていた。

「歩くには不便だが、とにかく崖登りが優先だから」 云って、男は靴を履いたあと、フィット感を確かめるように何度も靴の先を折り曲げたりしていた。

「さてと。。。」 男が崖を見上げた。

「ルートは、もう決まっているのだろう」 浩二は、前日に男が何度も崖を見上げながら行ったり来たりを 繰り返していたのを見ていた。

「一応な・・・フリークライミングの真似事が必要だが、大丈夫か」

「崖をよじ登る奴だろう、経験は無いが、腕力には自信がある」

「腕力だけがすべてではないが、まあ、腕力はあるに越したことはない」 云いながら歩き始めた。

雨は心持ち、小やみにはなってきたが、やはり断続して降っている。

「このルートを攻める」 男が見上げた崖。 途中、崖の中腹に何本かの高木が生えている。 「あの木が、休憩ポイントだな」 ただ中腹にたどり着くまでは、ほぼ垂直に近い角度の岩肌だった。 海に対しては真横の向き、海風は直接には吹き込まない。さらに 大きくせり出したいわゆる「オーバーハング」な箇所はなく、 数少ない絶好のルートと言えるのだろう。

「じゃあ、先に登る。俺がつかむ指先、引っ掛けるつま先の位置をよく見とけ」 「自信たっぷりだな」 「陸軍の特殊部隊時代、訓練でイヤというほどやらされた。 実際の断崖を登るのは今回が初めてだけどな」 「あ、このままじゃ腕の動きが・・・」 云ったあと、ブルーシートの所々にナイフで切り込みを入れた。 切り込みから二の腕を突き出す。 「仕方ない、腕が雨で濡れるが、やはり無理が」

「みたいだな。ナイフを貸してくれ」

準備のできた浩二を見て、そろりそろり と前方の崖をよじ登っていった。

※ 2010年3月31日 午後2時40分 佐々木は、白浜冷凍に向かうべくカローラのハンドルを握っていた。

あのあと、県警や、田辺市にある海上保安部に寄ったものの、 これという目新しい情報の収穫は、なかった。 コンビニエンスストアでの聞き込みの方が、有力な情報だったと思った。 ただ、すさみ漁港騒動で、和歌山海上保安部所属の全警備艇が出動したという話に、 (シースピッツの行動は全船をおびき寄せる為の、陽動作戦じゃなかったのか) ふと脳裏に浮かんだ。

もし陽動作戦とすれば・・・ 南紀一帯の海上を空っぽにさせる必要て何だ。 白浜冷凍倉庫は船舶からの荷を受け入れるための施設があった筈。。。 そのあたりと絡めて、考えるとしたら。。。

思考がその部分に来たとき 白浜冷凍の門の前まで来ていた。

時計を見ると午後3時を廻ったところだった。

「遅くなってすみません」 事務所に駆け込んだものの、専務の栗原は集金に出かけて居て留守とのことだった。

「こないな天気の日に大阪からすみませんねえ」 沢田と名乗る事務員が応接室に案内し、お茶を煎れてくれた。

「いえいえ、どうぞお構いなく」

構内は数台のリフトが行き交う騒音で活気づいていた。 応接室の窓から光景が見える。立ち上がり、しばし眺めた。

従業員たちは皆、表情も明るく、日常と変わらず、職務に没頭している様子だった。 新社長が謎の行方不明にもかかわらず、沈んだ空気など感じられない。 (着任早々ゆえ、新米の浩二君に対する愛着の浅さなのか、もしそうだとすれば・・・)

何やら浩二君が不憫に思えた。

だが、それは後に、単なる勘違いだった事を佐々木は知る。

やがて「お待たせ」 専務の栗原が、入ってきた。 「いやあ、月末なもんで、集金やら何やらバタバタですわ」 「それはそれは商売繁盛で何より・・・佐々木と申します」 立ち上がり名刺交換をした。

あらためて栗原の顔を見ると、やはり凄みがあった。

「・・・・で、最初に云っておくが、専務の栗原。奴も以前は組の若頭や。 ただ、坂本が認めたほどの男じゃから、余計な心配は要らん」 高城社長からの電話を思い出した。

その後、行方不明になる前夜、歓送迎会の様子。さらに、遡って 断崖での謎の男との一件まで栗原が説明してくれた。

続いて 「紀伊田辺に雑居ビルがありまして、そこに・・・」

今日の昼前、実際見てきたビルの件、それにコンビニで訊いてきた一件を佐々木が説明する。

「やはり・・・なるほどのぅ。東南アジアなんとかが怪しいですら」

「あのぅ、もし良ければ浩二君の部屋見せていただけませんか」 「あぁ、うっかりしてました。どうぞどうぞ案内しますけん」

ベッドに脱ぎっぱなしのスーツ、枕元に散乱の財布などなど やはり、行方不明に繋がるモノは 何一つ部屋の中からは見つけられなかった。

「海南や御坊市に調査に行かせたヒロシの意見も聞いてからになりますが、明日にでも紀伊田辺のビルに再度行ってこよう、そう思います」

「あ、是非。なんならワシも一緒に」 「会社の方はよろしいのですか」 「はい、月末の今日は、棚卸しやら、集金で動き取れませんでしたけんど、 明日は全然大丈夫ですけん」

佐々木は そう云う栗原の目をみつめ、 (この人は、心底から浩二君を心配してくれている) そう感じていた。

※ 2010年3月31日 午後5時20分 紀伊田辺第一ビル前 舗道

黒っぽい小型トラックが横付けされ、数人の男が荷物をトラックに運び入れていた。

トラックの横を数台の車が行きかい、舗道にも何人かが歩いていたが、 誰一人として 不審に思い、気にとめる者はなかった。

ごく日常の ありふれた光景だと皆は思った。

何より、あいかわらず降り続けている雨脚に、皆は帰宅の足を早め、 それどころではなかったのだろう。

つづく

※ 当記事は フィクションですので 万が一、実在するいかなる個人、団体、地名とも 一切の関係は ございません

(-_-;)