行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 /方丈記 鴨長明 より
体の慄(ふる)えこそ止まっていたものの、 スラブと呼ばれる岩を目の前にして、浩二の全身は硬直してしまった。 どう見てもその一枚岩は滑り台のような岩だ。 始めの一歩を踏み出す勇気がなかなかわかない。
「いったん目を閉じてみろ」 上で見守っていた男がしびれを切らしたのか声をかけてきた。 男も、登りきったあと、全身から恐怖を吐き出すが如く、 まるで呻(うめ)くような息づかいを見せていたのだ。 岩を目の前に硬直する浩二の恐怖感は手に取るように理解出来たのだろう。 男の言葉には説得力があった。
「お前なら出きる、まず目を閉じて精神の統一や。次、おもむろに手のひらと、足先に神経を集中させる。すると、体が勝手に岩に吸い寄せられる感覚になるんだなこれが」
なるほど。
拳法で培った精神統一の要領を思い出す。
一旦目を閉じ精神統一をはかる。だが、雨音や波が打ち寄せる音が邪魔をし、雑念がなかなか消えない。 仕方なく、恐る恐る、岩に手をかけ、右の足先を乗せてみた。 それが効をそうしたのか、落ち着きを取り戻し岩に吸い寄せられる感覚になった。
ここぞとあらためて精神統一を試みる。 雑念が消えていく。
岩を押さえる手は、胸の位置。 足の親指で立つ感じ。
一歩踏み出し、岩に立ち上がった。
「岩は山側に傾斜してる、絶対大丈夫や」
確かに。それと当初、考えるより靴さきのグリップ感は思った以上によく、 今の所滑る心配はなさそうだった。
「そう、その感じ」 男がつぶやくような声をかける。
男の声を頼りに、二歩目を踏み出して行く。
「かかとを上げるな」
ついかかとを上げてしまいそうになる。
「そう、そのまま、その調子」
「ひざは岩につけるな」 すこしの窪みがあるとつい、ヒザをつけたくなる。
「そうそう、そのまま」
「右、左、右、左 そのリズム感良いぞ」
(まるで一歳児が初めて歩く練習光景じゃないか)
「あ、蹴り出すのは、上の方の足や。そうそう」 つい雑念が入った。
「それ、あと少し」
「かかとは、下や、横向きになりかけてる、 そうそう、そのまま、足の親指で立つ感じ」
「右足、腰の重心も右。次ぎ左足」
「もうすこしや、それっ!」 男も少し興奮したのか、それまでのささやき声より、大きくなった。
・・・・・・・! もう少しの声に、油断があった。 つま先で蹴りだした岩がツルっと滑る。 慌てて、岩を掴みに行ったはずの腕が宙をかく。
しまっ・・・!
一瞬、頭がパニック状態になり、目の前に閃光が走った気がした。
だが、
宙をかいた左腕は男にしっかりと掴まれていた。 浩二の巨体を引き上げる男の腕力にも凄いものがあった。
のぞき込んだ男の顔があった。 見上げた眼に雨が入る。 一瞬にじんでよく見えなかったが、眼は笑っていた。 ようやく、その笑顔に落ち着きを取り戻す。
「もう大丈夫や」
! たしか・・・前にもおなじような事が。。。 瞬間頭をよぎったが、それが何時であったかまで思い出されなかった。
「よっしゃあ、右手はそこ、その岩や、つかめ、もう大丈夫や」 叫んだ先をみると、おあつらえ向きな岩が突き出ている。
ようやくな確かな手応えだった。 男が左腕を引き上げてくれると同時に、岩をつかんだ右手で、はいあがる。
(家島や、渦に巻き込まれたときや、秀さんのあの腕や) 記憶が甦る。
よじ登った後、岩を両腕でしっかり抱きしめ、足場を確保した。
(助かった・・・)
そして少し前、男がしたように、
「はあはあ・・・」 やはり全身で息を吐いた。体の奥から搾り出すような息遣いだ。 今頃になって、両足がガタガタと震えた。
それまで極度に張り詰めていた全神経が解放される。
潮騒の音や、ブルーシートのレインキャップに降る雨音が、聞こえ始めた。
「やったな。正直、登れるとは思わなかったぜ。フリークライミングの素質あんぜお前」
(お前のアドバイスのおかげ・・・)
声に出したかったが、声にならない。 強烈な恐怖感を吐き出すには時間が足りなかったのかもしれない。
やがて全身から汗がみるみる吹き出し、なぜだか、 涙がとめどもなく流れた。
「仕方ない、ここで小休止や」
男がフトコロからイタドリを取り出し、寄越した。
(まだ隠しもっていたのか) 受け取ると、むさぼるように喰らい付く。 カラカラに乾いた喉を酸味の利いた液汁が潤す。
ひとつ確実に言えるのは、名前すら知らないこの男に“命”を救われた。と云うことだ。
その後どれほどの時を経ただろう。 潮騒の音はあいかわらず強く響いていたが、雨はいつしか霧雨に変わっていた。 遠くの雲間は所どころ切れかかっている。 この調子なら天気も回復しそうだ。
「おかげで助かった。そろそろ登り、続けるか」 ようやく声が出た。
「了解。じゃあ最後のひと頑張り、しますっか」
スラブと呼ばれる一枚岩を登り切ると、なだらかな傾斜が続く岩だった。 足の置き場も広く、余裕で登り始められる。
頂上近くになると、崖の向こう側の視界が開けた。
すっかり夜の闇に隠れていたが、 山影のさらに遠く、薄ぼんやりとした灯りの塊(かたま)りが見えた。 目を凝らしてみる。どうみても人工的で、色とりどりな光の集団だった。
(あの方向・・・もしかして白浜の温泉街・・・)
男も同じ方向を無言で眺めていた。
ただ、山道を夜通しかけ、かなりの距離を歩く覚悟は必要なのは確かだった。
(先ほど経験したあの恐怖に比べりゃ、どうってことなど)
両手はいつしか知らない間に、しっかり握り締めていた。
つづく
※ 当記事は フィクションですので 万が一、実在するいかなる個人、団体、地名とも 一切の関係は ございません
(-_-;)