つかのまの春とともに しぼんだばらを惜しむまい 山のふもとの風かげに 実るぶどうの房もすてがたい。 草深きわが谷合(たにあい)の飾り物 こがねにかがやく秋のよろこび それは乙女の指のように ほっそりとしてけがれもない。
/岩波文庫 プーシキン詩集 ぶどう より
大阪の京橋方面から、JR環状線内周りに乗る。桜宮、天満と過ぎ大阪駅の手前に差し掛かると、新御堂筋を横切るそこそこに長い横断歩道を眺めることが出きる。 もっとも進行方向に向かって左側のドア位置に乗車した時だけであるが。
2月。灰色の雲に覆われときおり粉雪が舞う底冷えのする日だった。 社用で京橋から大阪駅行きの環状線に乗った。 いつもなら、内周りの時、左側の位置は避けていたのだが、途中、桜ノ宮駅で耐寒遠足帰りの小学生の団体が乗り込んだ。可愛い彼ら彼女らの波に押し流され、気がつけば左側の窓側まで追いやられてた。
車内アナウンスが大阪駅を告げた。 視線を外さねば・・・そう思いながらもついつい、窓の向こう。
あの横断歩道を待ちかまえてしまった。
アズキ色のレジャービル。それが過ぎ・・と・・・・
8車線道路を跨ぐ、かなり長さのある白色の縞模様。
(あの横断歩道で賭けに勝った彼女の笑顔が弾け、そして僕らは急速に親密になった・・・だが・・・)
「あのぉ、席を変わりましょうか」 目の前の老婦人が声をかけてくれた。 白髪に品良くウエーブがかかり、にこやかな笑みをたたえ、キャメル色の暖かそうなコートを着ている。 「あ、いえ、とんでもない、大丈夫です。すみません、ありがとうございます」 僕は礼を言い頭を下げた。 声をかけてくれた理由はわかった。 今にも倒れそうな顔つきだったことだろう。けど、ただ単に、泣き崩れたかっただけだった。電車内でなければ声を上げ泣いたことだろう。
吊革を握る手にいっそう力を込め、両足を踏ん張り、しっかり瞼を閉じ、上を向いた。
彼女の、あの日 あの笑顔 あの鈴を転がす様な声、そして、 白くて細長い指。 そのほか、何もかもな彼女との光景が30年以上も経った今でも
鮮やかによみがえり、ぶざまな男の涙を誘う。 ・・・・・・・・・・・・・・
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彼女との物語は 1980年に始まった。---------
今と同じ様な就職難。三流大学出身、特にコネも特技など自慢できるモノなど何ひとつ無い自分。当然の様に志望した会社のことごとく、はねつけられ落ちた。 そんな中、ダメもとで受けた大手の総合商社。どういう訳か奇跡的に拾いあげてくれた。
入社3ヶ月目。ようやく社内研修を終え、営業3課に配属された6月の梅雨前の頃だった。 終業時刻も近づき、仲良くなった研修仲間と寄り道の相談でもするか。 そう思ったとき
「森野君、国光常務がお呼びだ」 3課長に呼び止められた。
「え、常務が?僕、あ、いえ私に、何用でしょうか」
「さあ、知るか、お前何かしでかしたのか」 川村課長も、首を傾げた。
新入社員がいきなり常務から呼び出される事など異例の出来事だそうだ。思い当たる事はないだろうか、あれこれ考えたものの、 だいいち、常務と直接に会話したのも入社試験の面接時と、新人歓迎会での宴席。それっきりだった。顔すら満足に覚えていない。ぼんやりと貫禄のある顔つきだったかと思い出す程度だ。
「ええか、国光常務は肩書きこそ常務だが、社内ナンバーツーの取り役(取締役)だ、くれぐれも失礼のない様に」 送り出した川村課長の言葉がより緊張を煽った。
常務の部屋は7階奥にあった。7階から上のフロアは廊下にも毛足の長い赤色の絨毯が敷き詰められていた。歩くとフワフワと宙に浮く感があり、まさに雲の上を歩いている感覚だった。 緊張しながらノックをした。
「やあ、森野君どうぞ」 国光常務は当時では珍しいワープロに向かって、キーボードを叩いていた。
(一体何を言われるのか) 緊張しながら勧められるままソファーに座った。
「呼び出してすまない」 一応詫びながら目の前に座った。 ナンバー2の凄みが漂う。紺色ジャケット、シルバーボタンが印象的だった。
「は、どうも」
「社にはそろそろ慣れたか」 「え、まあ、でもまだ研修が終わったばかりですので」
「まあ、これからや、いよいよだな。で、ひとつ頼みがある」 そういうや、ソファーから身を乗り出した。
「な、何でしょう」
「来週からワシと一緒にピアノ教室に入って欲しい」
「は、はあ?」 聞き間違いだと思い、訊きなおした。
「ピ、ピアノ?」
「そうだ、ピアノ」
「弾くあのピアノ」
「もちろん弾くピアノだ」 言いながら両手で弾く真似をしてみせた。
何か悪い夢を見てるのか、それとも新人歓迎会の延長で社内ドッキリ大会なのか?。 いや、もしかして業務に関係があるのだろうか。 いやいや、主に繊維、アパレル関係の部署ゆえ、ピアノとは結びつかない。頭の中は錯綜ぎみにいろんな事を自問自答した。
それに・・・ 「あのう、俺、あ、僕、あ、いえ私 音楽は全くの音痴です」
「承知している。だから君を選んだ」
つづく
※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在するいかなる個人、団体、地名、とも 一切の関係は ございません
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