小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの咲く頃に その2

「来週からワシと一緒にピアノ教室に入って欲しい」

「あのう、俺、あ、僕、あ、いえ私 音楽は全くの音痴です」

「承知している。だから君を選んだ」 ・・・・・・

船場商事株式会社 第一営業部第三課新人 森野彰(あきら)は昨日、国光常務に呼び出された時の会話を何度も頭の中でリプレイし、そして何度もため息をついた。 我ながら、何度もため息をつく女々しさにうんざりした。どちらかと言えば楽天家の性格だった筈なのに、とも思う。これが社会にでる事の厳しさなのだろうか。 いやいやどう考えても理屈に合わない理不尽な要請だ。だが、結局了承してしまった自分がとてつもなく卑屈に思え、一層情けなさがつのった。

「どうしたん、さっきからため息ばかり、それにいつもなら家を出てた時間やないの。研修が終わったとたん悩みでもあるの」 朝の支度は終えたものの、いつまでも朝刊を眺めてる息子にキミコが心配した。

「いや、別に。じゃ、行くわ」 (仕事以外の事で悩んでるんや)

憂鬱気分は会社に近づくほど酷くなった。。

「席に戻ったら報告するように」 昨日、川村3課長にそう言われ送り出されていたが、戻ると席には居なかった。 それをいいことに、さっさと帰ってしまったのも憂鬱のタネだった。

新人の場合、誰よりも早くの出社が基本だが、タイムカードを押したのは8時44分。始業時間の1分前だった。 チラりと課長席を見ると、営業2課長と新聞を広げ何やら笑っていた。 (きのうの事を忘れていたなら、関門ひとつクリアなのだが) が、森野の顔を見るや 「おーい森野君」案の定、呼びつけられた。

(この話は当分、君とワシだけの秘密だから) 昨日の、常務の言葉を考えながら、席に向かった。 (どう報告すれば良いのやら)

「昨日はすみませんでした」 だが 「ん?何や」 川村課長はきょとん顔を向けた。

「いえ、さっさと帰ってしまい」 「なんじゃそれ。それがどうした」

後から知ったのだが、川村は6月から新プロジェクトの責任者に抜擢され、目一杯多忙だったそうだ。 新人どころじゃなかったのが幸いした。 呼びつけられた用件は、今日から同行が始まる得意先への挨拶まわりの確認だった。

軽いミーティングのあと、先輩営業マンに連れられ得意先回りに出かけた。 得意先の商談相手との名刺の差し出し方など、叱られっぱなしで、緊張の連続だったが、おかげで来週の事など頭から離れつつあった。 しかし、やはり何かの拍子に常務との会話が甦ってしまい、暗い陰を落とした。

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「いやー先日のカラオケには笑わせてもらった」

先週に行われた歓迎会での事だった。無理矢理マイクを持たされ、新人の中で自分が一番酷かった。

「ですから、なぜ音痴の私なのですか。だいいちピアノなんて全く興味も必要もないですから。習う気は絶対にありません」 言葉を選びながらも常務に反論した。

「ワシと同レベルの“連れ”が必要なんや。ワシのヘタさ加減が目立たずに済むやないか」笑った。

(そんな理屈があるだろうか) 「そんな理由、無茶苦茶じゃないですか。習いたけりゃおひとりでどうぞ。常務の勝手じゃないですか」

(くれぐれも失礼のないように) 川村課長の言葉がよぎる。 だが、仕事とは無関係なプライベートごとと言ってよいこの話、失礼もなにも、あとで責められる道理はないだろう。

北河内総合大学」 突然声をあげた。

「はぁ?」

「ここ数十年、ウチの募集枠からは北河内を外していた」

「そ、それが何か」 何を言い出すのやら、次の言葉を待った。

「数十年ぶりに募集を復活させ、唯一応募してきた君を、採用させたのはワシの独断や。他の役員は全員反対やった」

「え、そうなのですか。それは感謝します。ですが、それとこれとは関係ない話じゃないですか」 少しうろたえぎみに言った。

席の電話機が鳴った。 「ちょい、すまん」 振り返り受話器を上げる。

「国光です。今大事な商談中や、すまんあとにしてくれるか」 ドスの効いた声で電話を切った。 (何が大事な商談中なものか)あきれた。

ふと常務の指先きを見た。節だらけのゴツゴツと太い指だった。

この男と、ピアノ。どう逆立ちしたって似合うとは思えない。 もちろんこの自分だって・・・・。

「そもそも常務がピアノを習いたい理由て何でしょうか」

「感動や」

「はぁ?」

「まだ内緒のつもりやったが正直に言う。ある人の誕生日に、サプライズを演出したい。絶対似合わないこのワシがピアノの弾き語りなど、場面を想像してみぃ、皆びっくりするぜ」 (たっ、確かに)

「なるほど、でもそれはやはり常務さん個人の問題であって、私や、会社業務とはなんら関係がないと思いますが」

「面接で君が言ったのは嘘だったか」 「はぁ」 何を言ったかは全く覚えていなかった。 受かりたい一心で、適当に言葉を並べたのだろう。

「『好きな言葉、それは感動です』それは嘘だったか。その言葉でワシは感動したものや。この男は信用できる、たとえ“優”の数が少なくても、と」 胸の奥を鷲づかみにされた気がした。

「で、ですが仕事に対してはもちろん頑張ります。ただ、ピアノ。全く関係の無い話だと。それに本来の業務にも支障が生じるのではないでしょうか」

「まさかそう来るか。じゃあ説明したる。たとえばや、将来大事なお得意との接待時、いきなりピアノの弾き語りでもしようものなら、全員感動するぜ。最高の演出と思わないか。滅多にそんな営業マン居ないだろうから評判を呼ぶぜ」 (なるほど・・・・)

「でも、僕、いえ私、何度も言いますが音楽は全くの苦手です。上達するなど想像出来ません」

「習う前から降参か。ワシ自身も不安で一杯や。しかし何事もチャレンジ精神が必要や。北河内大の根性みせたれや」

「だいいち月謝払う余裕も無いです」

「ワシがお願いしてるのや、金の心配は不要や」

「時間の余裕だって・・・」 あれこれと断る口実を探し続けた。

「週に一日だけやそれもたった2時間。先日のアンケート用紙もデタラメかい」 あ、と思った。 研修の最終日、人事部からアンケート用紙が配られた。

(週一回、就業後2、3時間講習会への参加は可能か) 学生時代からの彼女が居たが、毎日デートする訳じゃない。当然のように丸をつけたものだ。

「ですが・・・」

「まだあれこれ断りの言葉探すんかい。国公立のエリート校出身者じゃあるまいに。北河内大学の名が泣くぞ。久しぶりの後輩と、期待したのに」

「え!常務も」

まじまじと改めて顔を観察した。 白髪のオールバッグ。日に焼けた顔にシワがくっきり。。いやアチコチ疵(きず)痕さえ刻み込まれている。 大手商社の常務というより、どこやらの幹部の方がふさわしい。

「おう伝説の一期生や」

二日後とりあえず教室の下見を兼ね、挨拶に行くことになった。 その教室は会社から駅に向かういつもの道とは反対方向にあった。

「先月の事や、野暮用でココを通りかかった時、レッスンの音が聴こえた。で、ふとひらめいたんや」

「じゃあこの道を通らなければ思いもよらなかったんですか」

「ああ、ピアノなど、今さらワシの歳で・・・」 あきれた。

ビルの谷間に隠れるようにひっそりと佇む洋館の邸宅だった。 こじんまりとしながらも、立派な門構え、植木はほど良く手入れが行き渡っている。

大理石に石坂と刻み込まれている。 常務が確認し、門柱の呼びボタンを押す。

「ハイ」 スピーカーから少女のような声がした。

「電話していた船場商事の国光です」 「はいどうも」

やがて 玄関が開き、ジーンズに白のTシャツの女の子が出てきた。

「娘さんがおるのか」常務がつぶやいた。

「どうぞこちらで」 玄関横の応接室を案内され、二人で待った。

やがて ドアが開き 先ほどの少女がお盆に麦茶を持って来た。

小麦色に焼けたどこにでも居そうな少女だった。長い髪は後ろで白いヒモで一本に束ねていた。 「じゃあ早速説明させていただきます」 そう云って、ソファーに座るや、すらりと伸びた足を組んだ。

「え、お母さまは?」 おもわず国光が声をあげる。

「はぁ? あのぅ母はロンドンですが」

「まさか貴方が教室を?」

「はぃ、そうですが」

「えっ」 思わず常務と顔を見合わせた。

つづく ※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在するいかなる個人、団体、地名、とも 一切の関係は ございません

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