小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの咲く頃に  その5

次の角を曲がると石坂家が見える。そう思うと胸が高鳴った。 高鳴りの原因は初めて習うピアノへの不安がほとんどだったけれど、一方でどこか期待する気持ちもあった。

ビルの谷間に建つ瀟洒な邸宅は静かに客人を待っているかの様子で、その空間だけが都会の喧噪を離れ、静かに佇んでいた。 腕時計に目を落とした。午後5時55分。 ちょうど5分前。 ひとつ深呼吸をしインターフォンを押す。 「ハイ」 先週と同じ声がスピーカー穴から響く。 「あ、どうも森野です」 「はいお待ちしていました」

玄関ドアが開き、門まで美央が迎えにきた。目を合わすや笑みを向け、「ご苦労さまです」

 

ん?どこか大人の印象・・・ そうか、先週はジーンズにTシャツ姿だったけどシックな柄の、薄いブルーのワンピースを着こなしている。

「どうもよろしくお願いします」 どういう風に挨拶をしてよいものか、さんざん迷ったが、結局ありきたりな言葉しか出てこなかった。

「あ、どうもこちらこそ」 美央もそう言って頭を下げた。

「少しここでお待ちに」 先日の応接室に案内された。前回は緊張もあり部屋の様子など見る余裕もなかったのだけれど、あらためてみると家具調度品の類はどれも高級感に溢れていた。かと言ってハナにつく嫌みな贅沢品でもない。 良い香りの方向を見れば豪華な花瓶に溢れんばかりに花が活けられていた。

コンコン。ノックがし「まあまあ、これはようこそおいでくださいました」 とご婦人が入ってこられた。お盆に麦茶とオシボリを載せている。先日話の出た祖母だろうが若く感じられた。小柄ながらも背筋はピンと伸びている。

慌てて立ち上がり、 「あ、どうも初めまして森野です」 「はい、石坂美佐江と申します」 きっちりと和服を着こなしてられた。上着を脱ぎかけていたが、慌てて袖を通しかけた。

「あ、どうぞそのまま。上着はこちらへ」さっと上着を受け取るやコートハンガーに掛けてくれた。 「恐れ入ります」

「しかしまあ、おどろきですわ。貴方のような青年がピアノなど」 まるで珍しいモノを観察するように、視線は上へ下へ行ったり来たり。

「はぁ、どうもすみません。恥ずかしながら」 「まあ、恥ずかしいなんてとんでもない。ピアノに挑戦する気持ち。素敵だと思います。普通なら歳を取るほど、あきらめてしまうわね。あ、これ良いほうの意味で申し上げてますのよ、誤解なされないでね」

「いやどうも、ありがとうございます」 (本当はイヤイヤて言うか、無理矢理なんです) 素直に喜んでいいものか迷ったけど、とりあえずは喜んでおこう。

「そうそう国光常務様からお花をいただきましたの」 花瓶を指さす。 (常務だったのか) 名前は知らない薄紫色のきれいな花が活けられてあった。 「ライラック・・・もちろん偶然でしょうけど、私の大好きな花ですのよ。去年旅行した北海道が懐かしくて。もう嬉しくて嬉しくて」 満面の笑みを向けた。

「それはそれは」 (気が利くオヤジだぜ) 常務の細やかな心配りに感心した。「はい常務と私、このたびはご厄介と、ご迷惑をおかけすると思うものですから」

「ご迷惑だなんてあなた、面白いことを」手で口もとをふさぎながら笑った。

上流家庭の象徴的な雰囲気を漂わすご婦人だ。今年還暦と言えば自分の母親より、年上なのに同年輩いやむしろ若くみえる。 『美しい歳の重ね方』その手の参考書があるとするならばお手本にピッタリな方だ。

軽いノックのあと、 「お待たせ」 美央がドアを開け、いたずらっぽく顔を覗かせた。 「あら、結構盛り上がってられる」

「これ美央、突っ立てないで、ここに座りなさい」

「お婆様、でも時間が」 そういいながらも、祖母の隣に座った。

「でわ森野さんあらためて紹介します。先日言っておりました祖母の美佐江です」

「あら、どのように噂されていたか気になるじゃない」

「ご心配なく。まだまだ若いって、紹介していただけですわ、ね森野さん」

「え、ええウチの常務と同い年だとか」

「まあ、そうですの、明日楽しみがまた増えましたわ」本当に明日が楽しみそうな表情だった。

「では、せっかくお話が弾んでいるところ申し訳ございませんが、そろそろ特訓のお時間が来ましたので、お借りしてよろしいですか女王陛下殿」 美央が祖母に向かって敬礼の真似をする。

「はいはい、じゃあ頑張ってお稽古くださいまし」

そう見送られた。すっかり気持ちもほぐれ、肩の余分な力も抜けていた。

しかし今思うと、大事な孫娘にピアノを習う輩(やから)て、一体どんな男なのかと様子を伺いに来たのかも知れない。 いやきっとそうに違いないだろう。だが石坂家との付き合いはもの凄く良い気分なスタートを切ったのだった。

※ 生涯初のピアノ体験が始まった。

ピアノの前、中央におかれた黒色ビニールレザーの椅子に座らせられ、美央はすぐ隣の丸椅子に腰掛けた。 (かなり近い・・)

「ではあらためましてよろしく」 「あ、いえこちらこそ」 隣同士、横向きでお互いにぺこりと頭を下げあった。 長い髪が揺れ、かすかな香りが漂う。

「先週お聞きしましたが、ピアノに触れるのも全く初めてとか」 「ええ、どれがド、か、レなのかすら」

印も無く、ずらりと並んだ白と黒の鍵盤。さっぱり分からなかった。 美央は ぷっと笑い

「ここ、鍵穴がある場所が中心。んでもって、鍵盤の位置が中央のドで」 左から手を伸ばし、鍵盤を弾いてみせた。

「同じように弾いてみて」 言われたとおり押してみた。 これが中央のド・・・ piano
初めて弾き、部屋に響いたドの音は今も忘れない。

「そう、じゃあドの右隣は?」 「レ」 「その右は」 「ミ」

「もうおわかりでしょう、じゃあ弾いてみて」言い掛けて 「初めは右手だけの練習ね、それで親指が1、人差し指が2と覚え・・・小指は?」 「5?」 「そう。この楽譜を見て」 言われた楽譜をみると 1とか3とかの数字がおたまじゃくしの上に書かれてある。

「この数字は指の番号なの。3の指は?」 「中指?」 「はい、よくできました」 まるで小学生に教えるような説明だったが、おかげでよく理解できた。

「さっき、人差し指だけで弾いてたけど、ドはとりあえず1の指、2の人差し指はレ。。。もちろん音階が広がるとき、1の指でソを弾くときもあるけど」 (なるほど・・・だが)

「あのぅ、白と黒があって黒の方は何の音なんでしょう」 「はい、よく気が付きました」 美央は完全に先生口調になっていた。

「ドの音からレの音の関係は全音・・・全部の全ね。この楽譜見てくれる、この記号は?」

「シャープ?」

「はい正解。シャープ記号があれば半音・・・半分の音を高くしなさいという指示なの。 だからドとレの間、半分高い音を弾くときはこの黒い鍵盤を弾くの。それじゃあこっちの記号は?」

「うーん・・・フラット?」

「正解。フラット記号の時はさっきと反対に半音下げるの」

「えー。かなり大変やん楽譜とにらめっこ」 「まあ最初はね、でも弾くたび自然と覚えるから」

「僕でも本当に出来るんでしょうか」 「あ、もちろんよ。あと、ピアノの良いところは音痴に関係なく鍵盤さえ間違わなければ、ドはドの音が出るし、ファはファの音だもの」

「確かに。。。」 「ただ・・・弾く時の強弱で同じ音でも当然響き方が違うけど、ま、とにかく練習ていうか、慣れがすべてです」

その後 右手だけで ドからソまでの練習と、楽譜を見ながらドとミあるいはミとファの繰り返しだけの単純な練習が続いた。

確かに鍵盤への指の強弱で響き方が強すぎたり、反対に弱々しい頼りない音だったりした。 特に小指など普段使わない指が大変だった。しかし 単純な音階にもかかわらず、部屋一面に響くピアノの音は軽い感動ものだった。

「じゃあ今日はここまで。大変よく出来ました」 二時間はあっという間に過ぎた。

(ピアノなんてチョロイものや) たった初歩だけで有頂天になった。だが、考えが甘かった事を後々知ることになる。

つづく ※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在するいかなる個人、団体、地名、とも 一切の関係は ございません

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