小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの咲く頃に その9

「森野、頼みがある。ちょっと残っててくれるか」

・・・・・・・・ 予感はあった。(新米の僕への用事て、ひとつしかない。おそらく。。。)

前村加奈子と二人でテーブル上を拭いたり、ガラスコップや紙くずを片づけ終える頃、一旦会議室を出ていた常務が戻ってきた。 「国光常務、森野さん、お先に失礼します」 ゴミ袋を下げたまま前村が気を利かせた。 彼女にはいずれ本当の事を云わねばならない。同じ職場で勤めているのに、陰でこそこそとまるで悪い事をしているように見られるのが辛い。 もっとも、彼女の性格からして、そんな風に思いはしないだろうけど。 「おお、ご苦労さん、えーと確か君の名前・・・」 「え、はい営業事務の前村でございます」 いきなりだったからなのか、真っ赤に頬を染めながら答えていた。

「そうそう前村君、いつも気が利くのぅ。で、前村君。ここが踏ん張り時や、プロジェクトチームにとって、いや会社にとっても、ここ数日が運命の分かれ道になる。この森野や、営業のボンクラどもを助けたって欲しい」 「ボンクラとは思いませんけど。。」 前村は僕の方をちらっと見、クスっと笑ったあと、「もちろん私に出きる範囲での協力、精一杯やらせていただきます」常務の眼を真正面から見据えながら言った。 「おぉ、頼もしい。どや森野、聞いたか」 「は、はい」 前村はもう一度僕らに一礼するや、会議室を出て行った。

「君んとこ、男の営業連中は頼りないけど、彼女のような人材に恵まれてるな」 どう答えてよいものやら迷ったが 「ええまあ・・・」と、曖昧に返事した。 「で、さてと・・・」 ようやく切りだして来た。 「例の教室や。ワシの代わりに今夜頼めるか」 (やはり。。。皆にああいう風にハッパをかけた手前、さすがにピアノどころじゃないのだろう) 「え、今夜も。。。ですか・・・」 もちろん今の自分にとって、そう悪い話でも無かった。 「繊維ジャーナルの木内社長と晩飯しの付き合いや。アポがようやく取れた。先ほどの件色々確認せにゃならん、すまんこの通りや」 いいながらテーブルに手を付き頭を下げた。 「あ、そんな頭を上げて下さい。行きます。よろこんで行かせてもらいますよって」 「お、そうか」 「ただ。仕事の手伝いの方はよろしいんでしょうか、先ほどの話を聞いていて、今夜は残業の覚悟をしてました」 「はは、まだ担当は持っておらんやろが、川村や横山、さっき部屋を覗いてきたけど、すでに眼の色変えて電話かけまくっていたわ。新米の君が残ってたところで、足手まといになるだけや、それに奴ら先輩としての意地やプライドもあるだろうに」 「そんなものですか」 「ああ、そんなものや・・・しかし思いもよらん事が起きたものや、まあすんなりと事が運ぶよって、薄気味が悪かったのも事実やけどな。これでピアノがどんどん遠ざかって行くわ。君に差をつけられる一方やな」

「また今夜習ったことは報告しますよって。あ、常務じゃなく僕が現れたら驚かれるでしょうね、連絡しておきます」 「あ、心配は無用や。多分そうなるや思ってさっき電話しておいた」 (なんと云う手回し・・・専決事項かよ。だが・・・) 常務の顔を伺うと、本当に残念そうな顔をしていた。 もともとピアノ教室など常務から言い出した事だ。今夜の初レッスンをどれだけ待ち望んでいたろう。 「こう云うのはどうでしょう。来週の木金の2日とも常務が習いに行かれる、と云うのは」 あ、いや例のビアンコの来日は木曜・・・無理か。 そう思ったが、 「え、なるほど君さえよかったらそれはありがたい話や」 「でも、ビアンコの来日で東京へご出張では?」 「いや心配要らん、ビアンコの話は、もともと伊村社長みずから行かれる事になっている。実務的な話はカバン持ちを兼ねて川村課長がお供するし、東京支社長も準備万端整え、待ち構える。そういう段取りやがな」 そういって、がははと笑った。

意外な気がした。常務が先頭を切って乗り出すモノとばかり思っていたが、縁の下の力持ちて云うか、黒子役だったのか。 状況が一変し、予断が許せないが、契約にこぎ着けたとしたら手柄は常務のはずだろうに。 船場商事社長・・・伊村健介58歳 創業家の血筋を引く御曹司だ。社内では滅多に会えない。むしろマスメディアに頻繁に登場し、社員ですら新聞やブラウン管を通しての顔しか記憶になかった。 新聞やテレビの取材を受ける伊村社長の顔が浮かんだ。矢継ぎ早に新しいビジネスを創出し、剛腕社長との評判が高く、そういうイメージで社長を尊敬していたが、陰には国光常務の力があったればこそだったのではないか。いやそうに違いない。 それで社内ナンバー2との異名なのか。

国光と云うとんでもない男と、運命の坂道を転がる感がした。いや昇っていく?いずれにせよ熱い何かが胸を突き上げ、揺さぶられるのを感じていた。

※ 石坂家の植え込みに紫陽花が咲き初めていた。 肝心の梅雨はようやく来週からやってくるらしい。湿った風が吹いている。 長沢雅恵の顔が浮かんだ。 今夜から生駒女子大で行われる学園祭“アジサイ祭”だった。 すっかり忘れていた自分に気づき、少しうろたえた。 彼女との距離がどんどん離れていく気がした。自分の方から一方的に彼女に接近し、さんざん付き合い、彼女の心をもてあそぶだけ遊び、自分自身を癒したあげく、距離が出来たなら、じゃあそろそろサヨナラ。とても自分が嫌な男に思えた。 俺て奴。。。

「二日続けてお疲れさま」 出迎えてくれた石坂美央の笑顔が嫌悪感を少し吹き飛ばしてくれた。 とりあえず、ピアノや。ピアノに集中せねば。 「ご苦労様です」 祖母もわざわざ出迎えてくれた。 「どうもすみません、国光に急用が出来たものですから」 「ええ電話で残念がっておられましたわ、お仕事ですもの仕方ありませんわ」

「今日は昨日のおさらいの後、左手の練習。時間があれば両手での練習をしてみますね」 言いながらお手本を弾いてくれた。 同じ鍵盤かと思うほど 単調なドレミの繰り返しでも部屋中に響く音色に感動した。 指先の動きをじっと見つめてみた。右手だけの演奏だが5本の指は流れるように動き、風に揺れるゆりかごのようだった。 途中から左指の動きが入った。 左は単調なリズムで同じ鍵盤を弾いている。だが、左と右。 それぞれが見事なまでのハーモニーを奏で、奥行きというか、音の広がりは素人の僕にもわかり、感動した。 うかつにも涙がこみ上げそうになった。

「僕にも本当に出来るのでしょうか」 「もちろん。それなりの練習が必要だけど」

だが、二日目のレッスンは、初日で有頂天になったほど甘くは無かった。

つづく

※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在するいかなる個人、団体、地名、とも 一切の関係はございません

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