小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの咲く頃に その10

前回までのあらすじ

1980年、総合商社船場商事新入社員の森野彰。ある日常務に呼び出された。なんと一緒にピアノ教室に入ってくれとの依頼だった。最初は固く断っていたが、とうとう説得されるハメに。教室に行くとなんと教師は15の少女だった。一方、会社のプロジェクトではイタリアのファッションデザイナーとの間で日本総代理店契約の話が進行していたが、ライバル商社角紅の参画が明らかになり、チーム内は騒然となった。


「じゃあ次、森野さんの番ね」
すっと美央が立ち上がり、椅子を替わった。ふわりと良い香りが揺れた。
椅子に残っていた美央の温もりに心が騒いでしまった。(落ち着け、まだ子供じゃないか)
平静を取り戻そうと
「ここがおへそのド」
わざとおどけながら弾いた。
(この子に恋をしてしまったのだろうか。。)



「なにそれ。でも正解、ピンポン♪」
(あ、やはりまだ子供じゃないか・・)
「それぐらい幾ら僕でも、昨日の今日やから」
(ピアノ、ピアノや集中すべきは)
。。。今ではどの鍵盤がどの音階なのかパッと見て分かる。
どれも同じに見えた鍵盤だが、ある法則に気づいた。(自分だけの法則かも知れない)よく見ると黒の鍵盤は、2本と3本が規則正しく連なって並んでおり、2本組の左の白は必ず”ド”の音で、3本組の左はファの音だ。
鍵盤

これさえ分かれば、隣のレやミ、ソやラなども。
昨日の途中その事に気づき、云ってみると
美央は「え、そういう覚え方もあるんやね、私の場合、物心付いたときからドレミがどの鍵盤か見なくても分かってたものだから、子供らに教えるときかえって苦労したの」と感心してくれた。

「昨日はソまでの練習やったけど、きょうはその先、ドまで弾いてみて」
美央は、その時少しいたずらっぽい顔をしていたのに気づかなかった。
「了解」と自信たっぷりに弾き始めた。
だが、ソまでは難なくだった。しかし次のラへ移行するとき止まってしまい、仕方なくさらに小指を延ばしラを弾き、ひと呼吸おいて人差し指だけでシとドを弾いた。

「ブ、ブーッ。案の定やね」
と、云ったあと笑った。

「え、この場合どうするんだったっけ」
先ほど弾いてくれたお手本を思いだそうとした。しなやかで流れるような指の動き。もちろん低いドから高いドまで途切れもせず弾いていた。
「今日はピアノレッスン最初の関門。指くぐりの練習、よく見てて」

そう云って、にゅうっと身体と手を伸ばしてきた。息づかいがすぐ横で聞こえる。今夜は束ねていない長い髪が、ワイシャツの袖を捲っていた左腕に直接触れた。
(・・・・・)
彼女にとっては、ごく当たり前の、レッスンにつきものの姿勢なのだろう。意識しすぎる僕こそおかしすぎる。
変にドギマギする僕に気付きもせず、
「ド・レ・ミ、次ファは親指をこうくぐらせて親指で弾くの、そうすればソ・ラ・シ・ドて順に弾けるでしょ。」
すぐ近くで僕を見上げた。
「は、はぃ・・・なるほど」(何を考えてるんだ俺は、ピアノに集中せねば)
指くぐり。簡単そうに見えた。だが実際にやってみると思うようにはいかない。ファまで到達せず、何度もミの音を弾いてしまう。

「子供ら、ここがつまづく一歩目なの、でも一番大切だから何度も繰り返し、覚えるしかないの」
「は、はぃ」
ふと、彼女が弾き始めたのは幾つだったのだろうかと、訊いてみた。
「うーん・・・」しばらく考え込んでいたが、「母に云わせると2歳ごろからおもちゃ代わりに弾いてたらしいけど、その頃て全然記憶にないしぃ」
「なるほど、お母さんの影響。ピアノ一家にありがちな」
「う、うん。ピアノが子守歌代わりだったし、ピアノの聞こえない日常て、考えられなかったの。いつしか母の代わりに私が弾いてるし・・・これしか無いてゆーか、すべてなんやけど、今は」
そう云ってなぜか悲しい目をし、うつむいた。
(あ、何か悪いことを訊いたのだろうか)
だが、すぐに笑顔を見せ
「右手を宙に上げてみて」
云われるまま目の前に上げた。
「会社とか人前では出来ないと思うけど、日常も指をくぐらせる練習やってたら全然違うと思う」
目の前でお手本を見せてくれた。
見よう見まねで、何回かやっているうちに指の動きが柔らかくなった気がした。

弾いてみた。
何度か弾くうちにコツが掴めた。低いドから高いドまで流れるように弾け始めた。部屋に響く音は我ながら心地よい。
「え、飲み込み早いやん。じゃあ次、音階が下がる時の指くぐり・・・しっかり見ていて」
云いながら高いドから順に降り、親指でファを弾いた後、中指を親指の上へ持って来、ミを弾いた。
「こうしてレ・ドね」

これがまた苦戦だった。
しかし指の運動が効を湊したのか、何度も繰り返すうち、自然と指が動くようになっていた。

「そうそうその調子。ではこの楽譜見ながら弾いてみて、一応指番号通りに、あ、シャープとかフラットとか記号は無視でいいから」
単調なメロディーながらも、音階をあがったり、下がったり。

ん?どこか聞き覚えのある曲だった。
その後、すっかりピアノに集中した。と云うより鍵盤の音色が自分で自分を酔わせた。
どれほどの時間が経過したのだろう。
気が付けば、右腕や肩の筋肉がパンパンにこわばり始めていた。
「少し休憩しましょうか。ノド乾いてないです?」
「ええまあ」
「了解」
云いながら部屋を出た。

立ち上がり、首をぐるぐる回し、右腕も回した。背伸びし、屈伸運動を繰り返した。疲れは確かにある。でも心地よい疲労感だった。

                  ※
「本日はようこそお出で下さいました。ごゆっくり、おくつろぎくださいまし」
二人に満面の笑顔でお酌を注ぐや、和服を着こなした女将が畳に両手をついた。
「おう、わざわざすまんな後でまた呼ぶわ」
船場商事常務取締役、国光勝芳は、女将が部屋を出ていくのを見送ってから向かいに座る男に徳利を傾けた。
「しかしまあ木内君、情報をおおきに」
「何を仰います、常務」
木内君と呼ばれた男も国光の杯(さかずき)に二合徳利を傾ける。

「角紅の計画がそこまで進んでいたとはな」
「ええ、そりゃあもう、わし等も驚きですわ、なぜあの堅物商社が今更ファッションの世界へなどと」
「逆に云えば、繊維業界は有望 って事かいや」
「はぁ、そのようですな、ちゅうか日本ではこれからまだまあ、開拓の余地があるっちゅうコトですわ、ワシらの時代が再び巡り来たっちゅう思いですわ」

コン・・・大阪ミナミのど真ん中にある料亭大井屋。その中庭で石を打ちつける鹿嚇し(ししおどし)の竹筒が響いた。

国光はふと時計に目を落とした。
7時半か・・・今頃レッスンも佳境やな。
来週・・・いよいよ始まるわ。なにもかも

「木内君、このあと、どこかピアノの響くバーでも繰り出さへんか」
「へい、なんぼでもお供しますよって」
繊維関係業界新聞、繊維ジャーナルの木内社長、満面の笑顔を国光に向けた。

                   つづく
※ 言うまでもありませんが、
当記事は フィクションです
万が一、実在するいかなる個人、団体、地名、とも 一切の関係はございません 

 (-_-;)