小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの咲く頃に その12

週が明けた。 平年に比べ梅雨入りが大幅に遅れていたが、とうとう日曜の夕方から降り出した雨は断続的に今も続いていた。 この土、日曜に長沢雅恵が待つ学祭へは、とうとう行かなかった事を考えちくりと胸が痛んだ。

雨足がやや強くなっていたが、先週末と同じく1時間早く家を出た。 早朝出勤の清々しさは経験したもので無いとわからない。前村加奈子の顔が浮かんだ。 ピアノ教室の事を言わねば・・・ 今週は常務に譲ったのでレッスンは来週の木曜だが、仮に仕事が残っていようが定時には切り上げたい。そのためにも彼女の協力が必要だ。 常務の事は言うべきか。当分のあいだ内緒に。と言うことだったが。しかし、言わなければ常務と何やらコソコソしてる様に見られるのも癪だ。 ま、彼女との会話の成り行きで考えるか。

早い時間帯では地下鉄もガラ空きで余裕に座れた。 端の座席に落ち着くや目を閉じた。白と黒の鍵盤が瞼に浮かぶ。

左の指で瞼の鍵盤を弾く。 空で弾いていても、途中何度もつっかえてしまう。 そして先週末の“あのちょっとした出来事”がよみがえる。

・・・・・・

「え、ちょっと小指見せて」

美央は僕の左手を掴むや自分の方へ引き寄せた。

(え!・・・・) 「可哀想。曲がったままやん、ここ」 そう言いながら、白くて細長い指先で僕の小指の先を優しく包み、そっと撫でた。彼女の手はひんやりと冷たかった。

胸の鼓動が高まった。

「ちょっといい?」 そう訊くや、「こうして引っ張ると伸びるけど、離すと曲がったまま、また引っ張ると、伸びる」 真剣な目をして僕の指先をつまんで伸ばしたり、離したり何度も繰り返す。

彼女にとっては、まるで小学生の教え子にでも接するかのように僕の指先を心配し、いたわってくれていたに過ぎないのだろう。ピアノのイチ教師として。

だが、変に意識はするまい、そう思いながらも平静では居られなくなった。 胸の鼓動は高鳴る一方だった。 (やばい、この少女に恋をしてしまったのか)

第一関節の先っちょは45度ほどに曲がったままだ。ずっとそれが当たり前になっていてすっかり忘れていたのだ。 「う、うん中一の時、バスケのパス取り損なって突き指やってもうて」 「医者には行かなかったの?」 「大したこと無い思ってそのままにしてたら曲がったままで」 「何事も最初が肝心、お医者さんにはすぐ行かなくちゃ」 「でも曲がってるだけで痛くも何ともないし、あ、左の小指のレパートの時、ちと辛いかも」 特に何の支障も感じず、今まで過ごして来たがまさかピアノを習う段になって支障を感じるとは。。。

「この指でもピアノ大丈夫やろか」 「ま、ハンデはハンデやけど、小学生らの手ってまだこの指より短いもの、それでもなんとか弾いてるよ」 握る手を離すどころか、ますます力を込める。

「はぁ・・・」 まだ僕の手を掴んだままだったが、さすがにようやく気づいたのか、ハッと離し、

「ごめんなさい」 言ってうつむいた横顔はみるみる真っ赤に染まっていた。 その、慌てぶりがすごく可愛いくてより強烈に彼女の虜(とりこ)になってしまった。

「いえ、僕の方こそ。。。」 何が僕の方こそ・・なのか、いま思えば間抜けな切り返しだった

が、あの夜を境に彼女を強く意識するようになった。 ・・・・・・・・・・

※ 「やっぱり、今日も早いね」 顔を合わせるや前村加奈子が笑った。先日と同じようにすでに制服に着替え、机の拭き掃除は終わりに近づいている。 (彼女て、一体何時に来ているんだろう)

「早朝出勤に慣れるとクセになる言ってたけどその通りやった」 「でしょう、雨やったけどガラガラの地下鉄では他人の傘も気にならないし」 「ええ、で、あれから何時まで残ってたんですか」 「ああ、大した事ないよ、会社出たの8時前かな、川村さんらはまだ残ってたけど、一足早く帰らせてもらったの」 さらりと言った。 「え!結構遅くまで・・・」 (8時・・・練習が終わった頃だ)

・・・・結局、彼女にピアノの事は言いそびれてしまった。 (ま、今週はレッスンは無いし、来週でもいいか)

※ 「じゃあ先週の課題について君らの報告聴こうか、まず営業の横山や」 国光常務の声が響いた。 プロジェクトチームの会議が始まっていた。

「はいッ」 勢い良い返事で立ち上がった割に、内容には厳しいモノがあった。 「自分の担当ではどうかき集めても日本円300万ってとこですわ、まだ婦人モノファッションやったら食いついてくれるのですが・・・」

「わかった、次 川村」 横山はまだ言いたいそぶりを見せていたが国光は無視するように川村を指名した。

「は・・・」 川村の報告も結局同じような内容だった。 『ジャンニ・ビアンコ』確かに欧米で知名度は高まりつつある、だがイザ日本で展開となると、紳士モノファッションブランドに高いロイヤリティーを払ってまで本当に元が取れるのか?そう言う浪速的金銭感覚がもたげ、金銭交渉となると現実は厳しい。 だが、指を咥え無視する訳にも行かず迷いもある・・・ そう言った報告が大半だった。

「案の定やな」

会議に出席した営業全員の報告を聞き終えると国光が立ち上がった。 「君らの報告では 一億リラ、日本円二千万って一体何だった?ちゅうコトかいや」

「いえ常務、現実はそうですが、数年後に大きく化けるのを期待して・・・」 「数年後って何時や」 「五、六年後・・・?」

「あほんだら!!」

国光の声がより一層会議室に響き渡る。 「だから繊維事業担当の営業三課はジリ貧なんや、ワシは断言したる、来年から一大ブームが日本でも来る。角紅商事はそれを見越しているからこその参戦や。ワシの結論を言う、倍の2億リラで交渉や、否5億リラでも惜しくない」

「えー!」 会議室中がどよめいた。 その時

「あのーぅ、常務ひとつ良いですか」 法務担当の古賀が立ち上がった。 「何や、言ってみぃ」 「そこまで出さなくても、日本国内での販売契約は当社が断然有利です」 「はぁ?」 会議室は再び静まり返った。 「調べますと、当社で “ジャーニービワンコ”と言う商標を第17類※で取得していたのです」 「ジャーニー何とか なんじゃいそれ」 「はあ 出願は昭和28年 登録同32年 おそらく琵琶湖旅行を引っ掛けての出願だと推測されますが、更新もされ権利は生きてます」

「それと今回の話、関係あるんかい」横山が言った。 「大有りです」 古賀はメガネを押し上げ 余裕たっぷりに説明を始めた。 「ジャンニ・ビアンコ商標を日本国内でアパレル関係で販売となれば日本で第17類※の登録が必要です。先ほど申し上げた当社の『ジャーニビワンコ』称呼が類似と判断される筈です」

「えー本当かいや」 会議室はまたも、どよめいた。

「なるほどのぅ、よく調べた」 国光が立ち上がった。 「じゃが、倍の二億リラや。我が社の誠意を奴らに提示する」

つづく ※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在するいかなる個人、団体、地名、とも 一切の関係はございません

(-_-;) ※1980年当時 商標の昭和34年法による登録 分類 被服、布製身回品は 第17類でしたが、現在では第24類 に、布製身の回り品。第25類に 被服 と分かれていますです。