その当時、家から梅田へ出るには、ふたつの方法があった。
ひとつは天満橋あるいは淀屋橋まで私鉄を利用し、そこから地下鉄に乗り換える方法。もう一つは京橋駅で国鉄(JR)の環状線に乗り換え大阪駅へ向かう。というもの。利便性の点で言えばどちらも似たようなものだったが、外の景色を見られる点で国鉄の方に軍配があがった。
いつもなら迷う事無く、国鉄を選んだのだが、その日の待ち合わせ場所に決めたのは、地下鉄御堂筋線の南改札口だった。今もそうだが、暗い中を延々と走る地下鉄は一向に好きになれなかった。また梅田の地下街は休日であろうがなかろうが、終日人の往来が激しく、しかもせっかちな大阪人は走るように歩く。地下街のどんよりとした、あのよどんだ空気も出来るなら避けたかった。
しかし
「御堂筋線だと乗り換えなしで一本なの」
石坂美央の言葉に負けた。と言うのではないが、彼女が梅田へ出かける際、頼りにする御堂筋線。(じゃあ俺も好きになってやろう)そんな気持ちが芽生えていた。淀屋橋からひとつ駅だが、距離はけっこう長い。ようやく梅田に着いた。腕時計を見ると1時40分だった。
扉が開き、人の波に押されるようにホームに降り立つ。やはり休日でも人は多い。むっとする熱気が身体を覆う。ネクタイで締めた襟元はすでに汗で湿っている。脇に抱えたままの麻のジャケットは邪魔で仕方ない。
しかし、美央と聴きに行くピアノコンサート。そしてそれが終わったあとの食事会。。。期待を胸に階段をかけ上がった。
(早く着きすぎかも)そう思いながら改札口の方に目を凝らした。
ずっとこっちの方を見つめていたのだろう、石坂美央と視線が合った。 僕と目が合うや、最初ホッとするような笑みがこぼれ、やがて満面に表情を崩した。周囲の目を気遣ったのか遠慮がちに右手を少し挙げ、わき腹のあたりで小さく振った。 (あぁ、なんと可愛い仕草) 少女だけが持つ清廉なつぼみを連想した。足取りが自然と早くなる。 香りたつようなラベンダーブルーのワンピースを着ていた。雑踏の中に居ながら彼女の周囲だけはまるで高原の涼しい風が吹いているかのようだった。 心がいつも以上に騒ぐ。彼女に強く惹きつけられる自分を感じた。 いつもは後ろでひとつにまとめてた長い髪は、左右から降ろし、頭を動かすたびさらさらと揺れていた。真っ白なハンドバッグを小脇に抱え、今日は一段と大人の雰囲気を漂わせていた。 「ゴメンだいぶ待った?」 「いえ、電車一本前だったかな、普段乗り慣れてないから加減が分からなくて」 鈴を転がすような独特な声の唇には、薄っすらと紅を引いていた。 いつものピアノ教師として見せる別の姿がある。 (あぁ・・・) 今から数時間、この女(こ)と僕と同じ空間を共有し、同じ時を過ごすのだ。。。そう思うと胸が張り裂けそうに震えた。 「じゃ行こか」「えぇ」 こうして並んで歩くのは初めてだが、彼女の背丈はそこそこに高い。肩の位置は僕とほとんど変わらない。 (え?しかし)と思い足元を見やると、かかとの高いサンダルだった。 「ハイヒールなんや」 「うん、慣れないから少し痛くて」 顔をしかめ、口をとがらせながら言った。 (あは、このあたりはまだ子供。。。) 最初の角を左へ曲がろうとした。 「少し待ってて、予約してるから早い思う」 そう言って彼女は右に曲がり花屋に駆け込んだ。 花屋の向かいにある阪神百貨店地階のウインドウに人だかりが出来ていた。つい歩み寄る。パンの生地を職人があざやかな手つきでこねていた。しばし見入ってると 「お待たせ」 小ぶりだが豪華な花束を抱え出てきた。 始まる前に楽屋へ届けると言う。 「かなり高そうな花束やね、そういった付き合いて色々と大変な世界やなぁ」 「えぇまあ、お互い様やから」 恥ずかしそうにうつむいた。 「美央さんのコンサートはいつなん?」 「5月に終えたばかりやから、次ぎあるとしたら。。。」 少し間をおいたあと、小さく「秋もしくは来年の春かな」 「あーそれ是非行きたい。今から楽しみやなあ」 素っ頓狂に声を張り上げた。 だが、 「ありがとう」 うつむいたまま小さく返事しただけだった。 ふいに先日気になった背中の細さを思い出した。 さりげなく彼女の背中に視線を合わせたが、ふわりとしたシルエットのワンピースで覆い隠され、きょうはよく見えなかった。 地下街を出ると一気に夏の日差しが眩しい。 容赦なく太陽は照りつけていた。 ビル陰を選んで歩きながら 「昔なら肌を焼きたくて陰は避けて歩いたもんや」 「あーわかる。それ私も」 「夏場に肌が白いとカッコ悪いイメージあったもんな」 コンサート会場は5分ほど東に歩いた場所にあった。梅田と言うより中崎町に近い。 屋根に十字架が建っていた。薄グリーンの壁の教会だった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2時間半のコンサートが終わった。 鍵盤が奏でる旋律の美しさや、ときに心に響く力強さ。。 それらピアノの凄さに僕はあらためて感動を覚えた。 特に先日美央が弾いてくれたリストのラ・カンパネラ。鐘がテーマらしく、たしかに胸を激しくかき鳴らすモノがあった。プロの間でも超絶の部類に入る難曲だと言う。 「彼女、西嶋かおりは母の一番弟子だったの」 「まだ若そうやけど」 すると、対抗意識からか、美央は少しむっとした表情で 「えーどこがやの、もう30に近いはずよ」 と口を尖らせた。 「あーまさか嫉妬?」 「え、いやあ。そんなん違う」 顔を赤らめながら、僕の肩を軽く小突いた。 その何気ない仕草にも心が騒いでしまった。 ざわざわと聴衆客たちが立ち上がり始めた。 「じゃあ僕らもそろそろ」 「ええ」
ずっとこっちの方を見つめていたのだろう、石坂美央と視線が合った。 僕と目が合うや、最初ホッとするような笑みがこぼれ、やがて満面に表情を崩した。周囲の目を気遣ったのか遠慮がちに右手を少し挙げ、わき腹のあたりで小さく振った。 (あぁ、なんと可愛い仕草) 少女だけが持つ清廉なつぼみを連想した。足取りが自然と早くなる。 香りたつようなラベンダーブルーのワンピースを着ていた。雑踏の中に居ながら彼女の周囲だけはまるで高原の涼しい風が吹いているかのようだった。 心がいつも以上に騒ぐ。彼女に強く惹きつけられる自分を感じた。 いつもは後ろでひとつにまとめてた長い髪は、左右から降ろし、頭を動かすたびさらさらと揺れていた。真っ白なハンドバッグを小脇に抱え、今日は一段と大人の雰囲気を漂わせていた。 「ゴメンだいぶ待った?」 「いえ、電車一本前だったかな、普段乗り慣れてないから加減が分からなくて」 鈴を転がすような独特な声の唇には、薄っすらと紅を引いていた。 いつものピアノ教師として見せる別の姿がある。 (あぁ・・・) 今から数時間、この女(こ)と僕と同じ空間を共有し、同じ時を過ごすのだ。。。そう思うと胸が張り裂けそうに震えた。 「じゃ行こか」「えぇ」 こうして並んで歩くのは初めてだが、彼女の背丈はそこそこに高い。肩の位置は僕とほとんど変わらない。 (え?しかし)と思い足元を見やると、かかとの高いサンダルだった。 「ハイヒールなんや」 「うん、慣れないから少し痛くて」 顔をしかめ、口をとがらせながら言った。 (あは、このあたりはまだ子供。。。) 最初の角を左へ曲がろうとした。 「少し待ってて、予約してるから早い思う」 そう言って彼女は右に曲がり花屋に駆け込んだ。 花屋の向かいにある阪神百貨店地階のウインドウに人だかりが出来ていた。つい歩み寄る。パンの生地を職人があざやかな手つきでこねていた。しばし見入ってると 「お待たせ」 小ぶりだが豪華な花束を抱え出てきた。 始まる前に楽屋へ届けると言う。 「かなり高そうな花束やね、そういった付き合いて色々と大変な世界やなぁ」 「えぇまあ、お互い様やから」 恥ずかしそうにうつむいた。 「美央さんのコンサートはいつなん?」 「5月に終えたばかりやから、次ぎあるとしたら。。。」 少し間をおいたあと、小さく「秋もしくは来年の春かな」 「あーそれ是非行きたい。今から楽しみやなあ」 素っ頓狂に声を張り上げた。 だが、 「ありがとう」 うつむいたまま小さく返事しただけだった。 ふいに先日気になった背中の細さを思い出した。 さりげなく彼女の背中に視線を合わせたが、ふわりとしたシルエットのワンピースで覆い隠され、きょうはよく見えなかった。 地下街を出ると一気に夏の日差しが眩しい。 容赦なく太陽は照りつけていた。 ビル陰を選んで歩きながら 「昔なら肌を焼きたくて陰は避けて歩いたもんや」 「あーわかる。それ私も」 「夏場に肌が白いとカッコ悪いイメージあったもんな」 コンサート会場は5分ほど東に歩いた場所にあった。梅田と言うより中崎町に近い。 屋根に十字架が建っていた。薄グリーンの壁の教会だった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2時間半のコンサートが終わった。 鍵盤が奏でる旋律の美しさや、ときに心に響く力強さ。。 それらピアノの凄さに僕はあらためて感動を覚えた。 特に先日美央が弾いてくれたリストのラ・カンパネラ。鐘がテーマらしく、たしかに胸を激しくかき鳴らすモノがあった。プロの間でも超絶の部類に入る難曲だと言う。 「彼女、西嶋かおりは母の一番弟子だったの」 「まだ若そうやけど」 すると、対抗意識からか、美央は少しむっとした表情で 「えーどこがやの、もう30に近いはずよ」 と口を尖らせた。 「あーまさか嫉妬?」 「え、いやあ。そんなん違う」 顔を赤らめながら、僕の肩を軽く小突いた。 その何気ない仕草にも心が騒いでしまった。 ざわざわと聴衆客たちが立ち上がり始めた。 「じゃあ僕らもそろそろ」 「ええ」
ラ・カンパネッラ (la Campanella) は、ニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調Op.7、第3楽章のロンド『ラ・カンパネッラ』を主題にフランツ・リストがピアノ用に編曲し作り上げた曲である。最終稿の『パガニーニによる大練習曲第3番』は、数多くあるリストの曲の中で最も有名。今も多くのピアニストに愛されている名曲である。Campanellaとはイタリア語で「鐘」を意味している/ Wikiより引用 ※ 「しかしまぁ、いやあ、ピアノって凄い。もう感動の連続やったわ」 美央は笑顔で頷いた。 「しかし、あそこに到達するまでには、かなりの練習とか、厳しいものがあるんやろね」 「え、わかってくれます?」 美央はさっきよりうれしそうに頷いた。 ! (あ・・・) この子も普段はかなりの苦労というか、練習の日々なのだろう。 美央の場合 それに加え孤独との闘いもあるのでは? そう思うとなぜか胸を熱くするものがあった。 「しかしまぁ、ここええ眺め・・・」 美央はうっとりとした表情で、組んだ両手であごを支えながら外を眺めた。 ここ東梅田グランドビル23階から見る景色は壮大だった。 梅田で美央の誕生会。。。真っ先に浮かんだのはこの場所だ。 「夜景ならもっと凄いんやけど、帰り遅くなってしまうし」 太陽は沈みかけてはいたもののまだ高かった。 「でしょうね、でも素敵な夕日が見れそう」 ウエイターがうやうやしく注文をうかがいに来た。 あまり胃の負担にならなさそうなフランスのコースを美央の為に決めていた。 それを二人分告げると 「かしこまりました。で、お飲み物はいかがなさいます」 「じゃあビールで」 「あ、私シャンパン」 美央がなにげに言った。 (あ、そうか彼女の誕生会。。。) うっかりと子供の頃クリスマスケーキと共に飲んだシャンパン“ソーダ”と勘違いした僕は、 「じゃあそれに、ショートケーキを二人分付けてお願いします」 と何の疑問も沸かずに言ってしまっていた。 「かしこまりました」 うやうやしく頭を下げ席を離れた。 その背中を見送りながら横に置いた上着のポケットをまさぐった。 「明日やけど誕生日おめでとう」 小さい包みを差し出した。 「え、えーッ」 え、まさかという驚いた表情をみせたあと、 「私に?」 「もちろん。あ、たいしたモノとちゃうから」 「開けていい?」 言いながらも、細く白い指先でリボンと包装紙を解いた。 「うわあ、こう言うの欲しかったんです」 目を輝かせ、子供のようにはしゃいだ。そして どう、これ。とでも見せびらかすように僕の目の前に差し出した。 23階の窓から射し込む光を受け キラキラとネックレスのチェーンが輝いた。 僕は彼女の喜ぶ笑顔をいつまでも眺めていた。。。 つづく ※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、などが出現しようとも 一切の関係はございません (-_-;)