小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの咲く頃に その43

どんなことがあっても、定時で仕事を終え会社をあとにせねばならない木曜日。その時間が迫っていた。一応時計は目に入ってはいた。が、もう少しのところで仕上がる書類にペンを走らせていた。すると 「森ちゃん、そろそろ時間ちゃうか」 思いがけず横山先輩が気を利かせてくれた。 「もう5時半か。ふあーっ」 全員を見渡せる位置に座る課長の川村が大きく背伸びをしながらあくびをした。

「今日もあッと言う間やな」「ケツが決まっとるからホンマたまらんわ」 「あぁ、どんどん時間が経つわ」「けど今まで日陰の三課やったけど、恐ろしいぐらい注目の的や」「あー。それ言える」「臨時ボーナス出るかな」「出るかい、甘いわ」


9月も半ばを過ぎ、ジャンニプロジェクトも最後の佳境を迎えていた。国内におけるライセンス品の発売はいよいよ半年後の3月と決定した。それに向け、仮契約までこぎ着けさせたサブライセンシー(生産側)との打ち合わせその他確認作業に、連日連夜多忙を極めていた。何しろ彼らにはジャンニ側が厳しく要求する生産(縫製)技術を守ってもらわねばならない命題があった。ライセンス生産の調印はあくまでも(仮契約)の段階だ。もし技術的に無理と音を上げるならばその時点でジャンニブランドのライセンス生産は諦めてもらうことになる。何しろ代わりの候補はいくらでも居た。

しかしまあ、先輩らが呆れるほどジャンニ側からの素材や縫製技術に関する要求事項は前代未聞の1アイテムあたり数百項目にも及び、仲介役の船場商事第一営業部(繊維事業部)第3課も両社のすり合わせや、確認作業に追われていたのだった。

横山のひと声と、川村のあくびがきっかけになり、それまで黙々と仕事をこなしていた連中たちの席がざわめき、一斉に僕の方を振り返った。 「森野君、時間やで」 「あ、すんません。もう少し仕上げてから失礼させてもらいますので」 「かまへんがな。その分、いつも早出(はやで)してるの、みんな知ってるで」

(木曜日。。。森野がひと足先に帰宅せねばならない日)というのは、いつしか三課全員に知れ渡り、暗黙の了解というか、なかば公認されたも同然だった。

「ありがとうございます」 みなの心遣いが嬉しい。が、自分が強く主張し、希望通り契約にこぎ着けさせた泉州アパレル。彼らと協議を重ね何度も修正を加え、書き直した生産仕様標準書を早く仕上げたかった。それはようやくあと一歩のところだった。

それに。。(30分ぐらい遅れたとしても。。。)石坂美央の顔が浮かんだ。 もはや単なるピアノ教師と生徒・・・そういう間柄では無かった。もちろん鍵盤の前に座れば、厳しい教師としての顔を見せてはいたけれど。。。

「お茶どうぞ」 いつの間にか、お茶を用意するため席を外していた前村が戻ってきた。 「お。サンキュウ」「いつも気が利くな」 周囲から口々に声が飛ぶ。 一時はすっかり元気をなくし、心配した彼女だったが超多忙な仕事が紛らわせてくれたのか、すっかり元の明るさを取り戻していた。もっとも表面だけのことかも知れないけれど。 末席に座る僕に湯呑みを置きながら 「まだ居られたんですね。。。間に合わないかも思いながら用意したお茶、無駄にならなくて良かったです。けど、まだよろしいんですの。5時半はとっくに。。。」 のぞき込む目は、真に心配してくれる憂いがあった。 (他人の心配ができるほど回復したと云うことか) 「ありがとう、もう少しで仕上がるとこやから。。。」 すると 「まあこっちの方は逃げたりしないものね」 前村は、いたずらっ子の顔でピアノを弾くゼスチャーを見せた。 そしてふっと窓の外に視線を移した。

はっと思い出すものがあった。 6月。湖西線のホームから琵琶湖の方をじっと見つめていたあの目、表情だ・・・そして彼女がぽつりと発したひとことは途中、風にかき消された。

夏にもう一度、一緒に来たいね) 確かにそう聞こえた気がした。しかし実際のところどうだったのだろう。。。君塚を思ってのつぶやきだったのだろうけど、僕のジャケットをさも嬉しそうに着てくれたあの顔。負け惜みで言うのではないが、ただならぬ気配があったように思う。

前村につられて窓の外を見た。 すっかり秋の空が広がっていた。雲の位置が高く、ひんやりとした風にふわふわ漂っている感じでもあった。 ビワンコTシャツはタンスに仕舞ったままだ。琵琶湖どころか、プールさえも行かずにこの夏は終わってしまった。

「なあて前村」 自席に戻りかけていたのをつい呼び止めていた。 「えぇ」 だが周囲の耳があった。はっと気づくや 「あ、いやそれにしてもいつも気が利くな思うて。あ、最近一段と綺麗になったんちゃう」 「またぁ、そんな」恥じらいを見せるかのように、お盆で顔の半分を隠しながら言うや自分の席へと戻っていった。

石坂家の庭に赤い花が目立ち始めていた。 何の花だろうと座ってみると、奥から 「ぶっぶー。40分の遅刻」鈴を転がす特徴のある声がした。

この頃、木曜の午後6時になると門の鍵はすでに開け放たれ、僕は自由に中へ入るほどになっていた。

美央は花や木々に水をやっていた。ジーンズに白いTシャツ、木のつっかけは良いとして、麦わら帽子に、タオルを首に巻いた格好に、ぷっと笑ってしまった。それまで美央は、どこかピュアな透明感があって、生活感ゼロな雰囲気があったけれど、植木に水をやる姿は妙な感動があった。 「遅れて来て、何笑ってんよ」 「ごめんごめん。例の仕事、最後の追い込みが。で、この赤い花なんていう名前なん?」 「え、知らんの。あ、ちょっと待って」 いうや、蛇口を止めに走った。木のつっかけがカンカンと踏み石を鳴らした。 「お待たせ」戻るや花の前にしゃがみ込んだ。 「彼岸花よ」 「あ、これがか。。。」僕もしゃがみ込んだ。

座ると花や緑に囲まれ、大阪市内とは思えない空間がより広がった。 風が心地いい。 名前はもちろん知っていた。が実物を見るのは初めてだった。

「これがまあ、不思議なんだわ。お彼岸の時期になるときっちり咲く。。。」言いながら遠い目をした。 「先週まで咲いてなかったもんな」 「え、そうだっけ」 「たしか無かった思う」 風が美央の麦わら帽子を飛ばしかけた。 あ、と押さえてやりながら 「美佐江さん、中で待ってはるんちゃう?」 時間を気にした。 「おあいにく様、亡きご主人の墓参り。そろそろ帰る頃やけど」 「つまり、美央の祖父?」 うん、と寂しい表情でうなずき、 「去年の今頃だったの、じっちゃん・・・」 なみだ声で下を向いた。 「あー、ごめんごめん泣かすつもりは。。。」 「ううん」 と小さくかぶりを振り、「ちょっと思い出しただけやから」 言いながら笑った。 「可愛がってもろてたんや」 「うん」とすっかり幼い顔でうなずいた。 「じゃ、そろそろ」 と僕らは腰を上げた。

玄関に入るや 「森野さん・・・」 と美央は腕を巻き付け、体を僕の胸に預け唇を寄せてきた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 最後の一線は超えはしなかったが、二人きりになるなり僕らは抱き合う。すっかりそういう習慣が付いていたのだった。

仕事も 恋も なにもかもがうまく行き始めていた。 趣味といえるかどうか・・けれど一応の趣味のピアノだけは苦戦してはいたが、 怖いものなどこの世に何ひとつ無い気がした。 自分たちを中心に地球は回る。そういう確信があった。

それでつい、 “あの言葉”は僕の頭から消えていたのだった。

つづく

※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名

、地名、などが出現しようとも 一切の関係はございません

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