小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

狂二4 NINE.sec その3

(日本人として初。100メートル9秒台の夢です)

研究室で聞かされた大学教授の夢物語り。。。

地下鉄に揺られながら、彼らと交わした会話を脳内で復唱した。 それは決して夢物語なんかではなく、文字通りゴールの見える一大プロジェクトのように思えて来た。 そう確信づけたのは、帰りがけに紹介された大学陸上部、山根監督の存在だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「顧問の理論。そりゃあ僕にとっても理想というか、永遠の夢です。ただ悲しいかな。今まで巡り会ってきたのは俊足な子に限って小柄な体格の選手が多くて」 温厚そうな山根が嘆くように云った。

「え、三浦教授は陸上の顧問をされて?」 「一応名前だけの顧問です」三浦教授が照れた。 「それで寺島さん、この著書」 山根はテーブルの本を指した。

「滅多に行かない本屋に立ち寄った先週のことです。 (奇跡、ヒーロ)この二つの言葉に惹かれ、つい手に取り買わせていただきました」

「ありがとうございます」

「最初はてっきり絵空事のつもりで読んでおりました。けれど途中、やけに臨場感というか、妙なリアル感があり、あわてて巻末のプロフィールを拝見。すると、以前は新聞社にお勤めだったと知りました」

「えぇまあ」

「それでもしや、実際にあった事件がヒント?そうであるなら、2メートル近いこの子も実在では?そのとき陸上部顧問の三浦教授の理論が頭をよぎり、翌日教授の部屋に駆け込んだのです」

「そうだったのですか」

「あの時、血相を変えて駆け込んだ監督の顔。それはそれは迫力ありました。そういうことで、私も夢中で読ませていただきました。アチコチ折り曲げてしまいました。ご勘弁を」

「いえとんでもない。光栄です」

「寺島さんそういうことで、ひとめ彼を私の目でも確認してみたいのです。どうかこの通りです。よろしくお頼み申します」 三浦教授が深々と頭を下げた。

「承知しました。早速帰ってコンタクトをとってみたいと思います」 「是非、私らの夢の実現に」 三人は固い握手を交わし別れた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夢が実現するならば・・・ そのとき日本中が沸きたつだろう。いやいや記録次第では世界じゅうがあっと驚く。

その一方、時間が経つにつれ いやいやそんな簡単に行くわけなど。。 所詮、物理学。机上の空論ではないか。世の中、計算通りにコトが運ぶなら誰も苦労するまい。 彼の場合、本格的な陸上などおそらく未経験。素人が簡単に記録を叩き出せるほど陸上の世界は甘くないのでは。。。

いやまてよ、 素人が夢物語に挑戦。それだけでも立派なノンフィクションテーマじゃあないか。 たとえ9秒台は幻に終わったとしても、挑戦するサマを克明に追って行けば1冊の完成だ。 新春社編集部、三好菜緒子の顔が浮かんだ。企画書が通れば取材費という名目で前金だって期待できる。。。 底をつきかけた預金通帳を思い浮かべた。

----------先ずは肝心の彼だ。 陸上への挑戦に”うん”と云ってくれるかどうか。彼がノーと云えばそれで話は終わってしまう。

彼の奥様の年賀状では白浜冷凍倉庫に転勤とあった。 坂本社長にも逢える。。 こんなに胸が高鳴るのは久しぶりのことだった。 それにしても。。。 なんとかならないのか地下鉄。各駅停車をこれほど恨めしく呪ったのは初めてだ。ドアを蹴りたい衝動を何度も我慢した。

※ 「栗原専務、カワモト社長に大阪の寺島さんて方からお電話ですが」 「え、大将?事務所でさっき見たけどな。ここには居らんけん」 「そうですか・・・じゃあ構内放送で呼び出してみます」 「麗さん、分かるか6のボタンや」 「えぇ、やってみます」

(カワモト社長。3番にお電話です。カワモト社長・・・・)

栗原は 構内アナウンスが無事に繰り返すのを聞き終えるや、リフト作業に戻りかけた。 ふと時計に目を落とし 『もう夕方の4時。。おそらく20トントラック。。積み込み手伝いの真っ最中。。。あいかわらずだぜ、若大将』 にやりと笑った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

電話の向こうで聞こえる呼び出しのアナウンスを聞きながら

(え、河本社長?何かの間違いでは。。。) それに今、電話に出たのは取材に訪れたときの年輩女性とは違う。

ち、新人かよ。

舌打ちと同時だった。 (どうもお待たせ、河本です) 思わず受話口を遠ざけるほど耳に響く声が飛び込んできた。 紛れも無く、彼の声だ。

「どうもご無沙汰です。寺島です。家島騒動、取材ではお世話になりました」

(え、あん時の。。。。いやあ懐かしいっす)

「覚えてくれてます?」

(もちろんです。あ、せっかく頂戴した本。。なかなか読むヒマがなくて、その代わり家内が熱心に読んでました。時に涙を流して)豪快な笑い声が響いた。

だろうな・・・予想通りだったので落胆はしなかった。 (で、今度は何ごとですねん) 「あ、すみません、実は貴方にお会いしたいという方が居られ、明日かあさってご都合は」 (え、僕に。白浜まで来られますか) 「えぇ、勿論」 (少しお待ちを。。。) 電話の向こうで彼の話し声が聞こえた。声が大きいからかなり響く。 (レイカさん、明日の会議、午前中には終わるよな) (・・・・・・・) え? 相手の方。またも河本社長て呼んだのでは。それに今の口ぶり。会議?。。。まさか

(お待たせ、明日の午後なら大丈夫です) 「あ、どうもありがとうございます。時間は改めて連絡します」 一瞬躊躇したものの、思い切って聞いてみた。

「あのぅ、河本さん。今や白浜の社長さん?」 まさかと思いながら尋ねたつもりだった。 だが (えぇまあ、恥ずかしながら。いまだに慣れませんわ) 「えぇッ、そんな・・・・」

日本人初の9秒台・・・・ いきなり、夢・まぼろしで終わってしまうのか。 落胆するであろう教授と監督の顔が浮かんだ。

僕は手帳を眺めながら、しばしため息をついた。

つづく ※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。

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