小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

狂二4 NINE.sec その15

「寺島さん、私の理論には、唯一の欠点と云うか弱点があったのです」 視聴覚ルームに三浦教授の声が哀しく響いた。

「まさかそんな」 「初めてお会いした時、20年前にあの論文を発表後、各方面、専門家たちの間から激しく叩かれた事を申し上げましたよね」 「えぇ」 「風です」 「風による抵抗?」 「はぃ、アメリカでは当時から、私のような物理学や科学専門の学者を中心としてスポーツ力学の研究が盛んに行われていました。で彼らが出した答え。屋外スポーツでは身長が190を越える場合、むしろ風による抵抗をモロに受け絶対的な不利が働く。追い風の場合反対に良い方の影響を受けるのは否定しないが、常に追い風が吹くとは限らない。また長すぎる脚の場合、回転運動(走行ピッチ)の速度を妨げ、かえって鈍る。身長はせいぜい180台が上限。そういった彼らの論理でした」

「それで・・・反論はなされなかったのですか」 「寺島さん。。。」 教授は心なしか、少し寂しい表情を向けた。 「正直、風は迂闊でした。陸上経験のまったく無い私にとっては、所詮机上の空論だったのです」 「えぇッいまさらそんなぁ。。あ、でもボルト選手」 「えぇ、でその前に山根監督も一緒に見ていただきたいのですが」 と前置きし、 「じゃあつぎワタナベ君、真横からの分を」と指示した。 再び僕らはスクリーンに集中した。


真横から捉えた河本が映し出されていた。 「あ、ストップ」 と停めさせ、教授は頭上を起点として横に直線を引いた。 「ここの位置に注目、じゃ再生を」 「あ、こんなにも激しかったとは」 うなる様に山根が云った。 え、と線に集中して見る。なるほど、河本の場合、頭の上下のブレが他の走者よりかなり激しい。 素人の自分が見ても分かるほどだから相当なモノなんだろう。

「しかし教授、逆に言えばこれだけ無駄な動き。それであのタイムは驚異的とも言えます」 「監督、確かにそれも驚きです。でももっと驚くことが」 そう云って教授は「ワタナベ君、次はアップで捉えた方を」と指示した。

画面が切り替わり、足のアップだけの映像が始まった。 見事に発達した河本の筋肉。躍動し、大地を力強く蹴りあげる瞬間のそれはまさに芸術的ともいえた。 「ストップ」と、停止させ「ここです」教授はアキレス腱の近く、コブのように盛り上がった筋肉を囲った。

「彼の場合、短距離走の選手よりかなり発達しすぎなのでしょう、それが災いして大地を蹴りあげる瞬間、無意識に上へ上へと伸び上がろうとしてしまうのです。最初申し上げた90度の姿勢もこの影響かと」 「あ、あの驚異的な垂直跳び。。。」

教授は私をふりかえり「寺島さん、先ほどボルト選手の場合は。と訊かれましたね」 「えぇ」 「実はボルト選手もここと同じ筋肉が発達しているのです」 「え、そうなんですか。では風の抵抗・・・」 「えぇボルト選手の場合、風の抵抗になぜ打ち勝ったのか。それは単に姿勢の注意だけで越えられる問題では無いのです。ここの部分、この筋肉。ボルトの場合前へ前へと働かせる力に転化させたのでしょう。常人では不可能とも云える技術です」 「え、じゃあ河本君の場合・・・」 しばらく無表情でスクリーンを見つめていた山根が口を開いた。

「山根監督、私が云いたいポイントはそこなんです」 三浦教授はさきほどと打って変わり、力強い声を張り上げた。

「少し時間を要するでしょうが、河本君のこの筋肉。常に前へ前へと転化させる技術さえ会得させれば、記録の更新など充分。。。」

「期待できますか」

「もちろん」 つづけて教授は「ワタナベ君、一回目のを」 と、最初に走った映像の再生を指示した。

「あ、途中まで早送り。。。。。。あ、ストップ。で、スローで」

教授が指示した所は後半、河本が驚異的な加速を見せはじめ、前の走者に追いつく寸前の映像だった。 そして先ほどのようにスタイラスペンで横線を引いた。

「いやはや、再生を確認していて驚いてしまいました。どうです、上下のブレが全くないでしょう」 「あ、確かに。。。見事に」 山根が感心したが、素人眼でも上下のブレはなく、前へ前へと突き進んでいるのがわかる。

「三浦教授。これて一体何なのでしょう」 先ほどからメモを黙々と取り続けていた三好が訊いた。久しぶりに彼女の声を聞いた。

「おそらく。。。。私の推測なのですが」 と教授は前置きし 「一回目はスタートに失敗したことで余分な力が抜け、脚が勝手に前へ前へと動いたのでしょう。逆に二回目の走行。シノヅカ君を抜いたことでつい余計な力が加わってしまったのでしょう。それに向かい風の影響もあり、無意識に余分な力が働き上へ上へと。。。」

「なるほど。じゃあ一回目に見せた方の走り。偶然にもボルト選手と同レベルに達していた。そう云うことなんですね」

だが教授は平然と 「今日確信しました。初日でいきなりあの技術を見せるとは。。。彼・・河本君はボルト以上の逸材でしょう」

「まさか、んなあ日本記録どころか世界記録の更新に期待を持て、そうおっしゃるのですかぁ」

どういう訳か教授を問いつめるような三好の声だった。 その声が視聴覚ルーム全体に反響し、ブーメランのように私の耳に帰ってきた。 ようやく言葉の意味にはっ、と気づき教授の顔に注目した。 監督も含め全員が教授に注目した。

三浦教授はどこか苦渋に満ちた表情で下を向いていた。 やがて 三好の顔を真正面から見すえるや、にっこり笑った。

「その通りです」

1時間に1本しか来ない私鉄駅前行きバスの時間が迫っていた。 「本日は色々とお世話になりました。非常に有意義な取材でした。次回またお願いします」 山根監督や三浦教授に礼を告げると 「鈴木君、バス停までお見送りして」 監督が云った。 「とんでもない、こちらで結構です」 が、「初めての方、出口に迷われますわ」と鈴木マネージャーが笑った。 「そうですか、ではお言葉に甘えて」

部屋を出るなり三好は携帯の電源を入れた。 吊られて同じように携帯を取り出し電源を入れてみた。 何もないだろう。。。が、一件の着信履歴があった。 おそらく島根で暮らすままの女房の晴美に違いない。 彼女は、おおよそ三週間に一回の割合で週末にマンションの掃除に駆けつけてくる。 掃除が名目だが、おそらく独り暮らしの亭主の観察を兼ねての上阪に違いない。 も うその日なのか・・・ が、ディスプレイをよく見れば 表示されていたのは”仲村弘”だった。一瞬誰だか思い出されずにいたが、 やがてあのヒロシというのに気づいた。

つづく

※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。

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