朝、私たちが競技場に到着した段階では抜けるような青空が広がっていた。 昼近くに曇空が広がってはいたものの、午後になると一転、雨もよいの空になるだろうとは 一体誰が予想しただろうか。。。天気予報でさえ。。。
河本浩二が予選でいきなり男子100メートルの日本記録を打ち立てた影響で取材陣が殺到。その影響もあってか、大きく遅れて決勝が始まろうとしていた。河本を始め8名の勝ち進んだ選手たちがグランドに姿を見せるや観客席から地鳴りのような拍手がわき起こった。
選手たちはそれぞれあてがわれたコース内、自分のスターティングブロックの位置調整を開始した。
「なんか見てるこっちがドキドキするね」 女将さんが亭主に話しかけているのが聞こえた。
思わず鈴木に 「派遣記録突破、何と言っても日本記録の更新やから、万一何が起きても大丈夫なんでしょう、モスクワ?」と訊いた。 「えぇ、ただあくまでも内定なんです」 「え?」
「原則的にはまず、この関西実業団での優勝が必須条件で、ようやくジャパン陸上選手権の獲得。さらにそこでの上位成績者。と言うのが日本陸連が定めた世界陸上への条件なんです」
「へーそうなのですか。けっこう厳しいモンですね」 口ではそう言ったものの、午前中の走りを見る限り楽勝と思えた。唯一強力なライバルと思われた近畿ガスの江里崎選手の準決勝タイムは10秒30。今のところ他には有力な選手も見あたらない。ただ一つ注意すべきは自身のフライングのみ。当然コーチである山根も同じアドバイスを繰り返しているコトだろう、絶対大丈夫。自分で自分を安心させるように何度もつぶやいた。 だが
(順調に行っている時ほど何かが起きるモノなんです) 食事の際、ふと森野常務が漏らしたひと言を思い出してしまった。 (何かのナニて、この怪しい空模様なんだろうか)そう思いながら見上げた。
鈴木の表情を伺うと心なしか不安そうな面もちでスタートラインを見つめている。 その視線の方向。。。 「え?まだ終わってない・・・」 どういう訳か、河本ひとり黙々とブロックの位置調整を続けている。 それを見た二つ隣の池田君が手伝おうと河本のコースへ入った。 だが審判のひとりが池田に気づき、何やら注意でもしたようだった。仕方なく池田君は離れ、河本は再びひとりでの作業を余儀なくされた。
「試合中は原則的に選手同士の私語は禁じられているんです」 「でも試合前なのに?」 「コースに入った以上。。。そこは審判員の判断によるケースもあるのですが」 「ふーん。でもかなり手こずってるなぁ、あれ欠陥品と違うやろか」 「昔は競技場によって、整備の悪いモノって結構あったんです。調整ノッチがまっすぐであるべきところ、斜めになってしまっていたり」 「まさか、そんな奴にあたったんやろか」 「しかしいくらなんでも。。。昔のしかも田舎の話なんです」 言いながら鈴木圭子は遠い目をした。 そういえばこの娘(こ)も陸上少女だったのだ。 長崎の山や海に囲まれていたであろう自然豊かな競技場。そのグランドで目いっぱいの少女時代を過ごしたであろう鈴木。けなげな彼女の姿を想像してしまい、なぜか胸が震えた。
「やはりあなたも陸上を」 会話を聞いていた森野が入ってきた。 「彼女、高校生記録を持っているんです。5千メートルの」 私が代わりに答えると 「もう遠い話なんです」 照れながら下を向いた鈴木の声が風に流れた。 彼女が歩くとき、よく見ると右足のかかとを庇う様に少し引きずっている。 完治は無理なのだろうか。今回の一件が落ち着き次第、何か力になってあげられるモノは無いのだろうか。そうふと思った。
どうにか作業を終えた河本。大慌てでトレーニングウエアを脱いだ。堂々たる体格を披露するや観客席から再びどよめきが聞こえる。 「何とか間に合ったみたいですね」 森野の声に 「えぇひと安心ですわ」そう返事し鈴木にも同意を求めたが 「えぇ」と言ったきり、鈴木は再び不安げな表情のまま黙った。
いよいよ係員の号令で8名の選手がスタートラインに整列した。 場内アナウンスが1コースから順番に選手名をコールし始めた。 河本は4番目にコール。右手を上に突き出し一礼するや、競技場全体が ドッと沸いた。 報道席からも一斉にストロボが光る。 ポツリと数滴、雨つぶが落ちたのはそのストロボとほぼ同時だった。まるで雨を呼び込んだように。
「あッ」 鈴木の短く、しかし強く叫けぶ声がした。 「え」 おもわず振り向いたが河本の方を見つめたまま返事がなかった。 8名全員のコールが終わる頃、断続的な雨になった。あわてる観客たちのざわめきが聞こえる。雨具など用意している者などもちろん皆無で、ハンカチや新聞紙のたぐいを頭に被せている。ガサガサ、バサバサと場内が騒動しくなる。 「後ろに迷惑やけど日傘でも差すか」女将さんの声が聞こえた。 しかしどういう訳か、ひとしきりザッと強く降ったあと、ピタリと雨は止んだ。
「ゴールの瞬間まで持ってくれると良いのですが」「えぇ」 森野と同時に空を見上げたが、再び降りそうな気配は残ったままだった。
係員の指図で選手たちはようやく位置につき、スターティングブロックに足を乗せた。 100分の一秒を競う選手にとって、スタート。ここでの集中力が一番重要と云われる。さっきまでざわめいていた観客たち、幸いにもわきまえてくれたのか会場全体が静寂に包まれた。
「大丈夫やろか」 と鈴木の低い声。 「え、何が?」 鈴木に振りむくと同時だった。 「パンッ」 号砲が鳴った。
そして、そのすぐあとだった。 「あッ。あーぁ」「うわっ」 絶叫に近い悲鳴のようなため息が観客席を揺らした。
「あっ!」
河本はバランスを崩し前のめりにでもなったのか、ようやく起きあがる瞬間だった。
「あぁ・・・」声にならない声を漏らし鈴木は私の腕をつかんだ。
え。。。
河本はようやく態勢を戻すや猛ダッシュを見せた。 だがすでに最後尾の選手とでさえ5メートルは引き離されている。
会場全体からの悲鳴が大きいうねりとなった。
「あちゃー」 去年10月。河本の陸上練習の初日に行われた50メートル走の計測会での姿がフラッシュバックのように甦る。 しかし。。。 そうあの時だって怒濤のような反撃とも云える追い込みが。。。 そんなコトを思い出していた。 一方で
鈴木圭子に預けたままの片方の腕。 離すどころか、ますます強くなるその感触を味わっていた。
つづく
※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。
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