小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

狂二4 NINE.sec その35

スタートでつまずいてしまい、大きく出遅れた河本浩二。 だが体勢を立て直すや、陸上部初日に見せたあの怒濤の猛スパートをかけた。 耳を澄ますと、他の選手たちのスパイク音に比較し河本の場合、明らかに特徴があった。 一瞬の雨で少し湿ったトラックだったが、重低音から金属音に変わるその瞬間を早くも響かせ始めた。 いきなり5メートル以上は引き離されてしまっていた距離も、みるみると差を縮めて行く。

河本の巨体が織りなす、どこか爆発的な加速を見せつけられた観客席からは、驚きやとまどいの声で溢れた。 報道席からのフラッシュは途切れるコトなく焚かれ続けた。


「そこやっ、そこっ」 30メートル過ぎに2人に追いつき、そして抜き去ると 観客のほとんどが「よっしゃーあっ」の大合唱。

腕をつかむ鈴木の手がひときわ強くなった。 思わず振り向いたが、私などまったく眼中になく、何か祈りにも似た表情で河本だけを見ていた。 その横顔は静かなたたずまいを見せながらも、激しく燃えあがる何かを秘めていた。 そしてようやく私にも気づくものがあった。。。

この娘(こ)。。。河本のコトを。。。

先頭争いは池田君と江里崎君が互角の接戦を演じていた。江里崎選手は関西実業団の世界ではトップクラスの選手で今回も下馬評では優勝候補のひとりだ。 北摂大陸上部員の席から「先輩!」のかけ声も、ひときわ大きく聞こえた。

そして河本。中盤60メートル過ぎ、さらに3人を追いつめ抜き去った。 ついに先頭の二人まであと一歩の射程圏内に迫った。

「ぐわわわああ」 地鳴りの轟音となった拍手と声援は沸騰と化し、雨雲を追い払うかの如く会場全体を揺らし、包み込んだ。

パッ、パパパ・・・・ 河本特有の金属音がひときわ早くなった。 終盤に入っても、河本の加速は衰えるどころか、さらにピッチを上げたようにも見える。

「うわあっああああ」 観客席の声援は頂点に達した。 ゴール手前8メートルでとうとう河本は先頭の二人と並んだ。 観客たちは総立ちになり、私らも立ち上がった。 そして

手前5メートルで先頭に立つやそのままゴールを駆け抜けた。。。 激しい音をたてながらフラッシュが炸裂する。

「凄いッ」 「えぇ」 ようやく鈴木が口を開いた。 「あ。。。」 鈴木は、私の腕をつかんだままなのにようやく気づいた。 慌てて手を離し「ごめんなさい。。」 言って下を向いた。 「いえそれより」 視線は電光掲示板へ。

まさか?! 何度もまばたきを繰り返す。

「きゅう、9秒90」 沸き立った競技場が一瞬、時計が止まったかの如く静まり返った。 だがそれもつかの間、再び怒濤のような歓声の渦が押し寄せた。 二位で続いた池田君が河本に走り寄り抱き合いながら喜びを分かち合った。 結局三位に終わった江里崎君、見てはいけないモノを見てしまったかの虚ろな表情のあと、がっくりと肩を落した。

派手にハイタッチを交わしていた森野夫婦が握手を求めてきた。 「久しぶりにドラマを見させてもらいました」そう云って 森野常務は女将さんが差し出したハンカチで涙をぬぐった。

大歓声と興奮の渦で包まれた競技場。 いつしか断続的に雨が降り出していたが、ほとんどの観客たちは気にも留めず、笑顔のまま競技場を後にしたという。。

※ 案の定。 翌朝の全新聞の一面は河本浩二で埋め尽くされ、 全テレビ局のトップニュースは河本の走行映像が流れた。 新聞で一番派手だったのは毎朝新聞の一面トップで 「世界が激震!失敗スタートでも9秒台」との見出しが踊り、 続いて「一気に近づく世界記録の夢」の文字が飛び込んだ。

「モスクワでの記録更新も手が届くところに。いやあもう夢を見ているようです」と日本陸連幹部のコメントまでもが掲載されていた。 世界陸上モスクワ大会出場は決定とも取れるコメントだった。 「あのスタートで9秒台。これはもう世界レベルの逸材です」 という専門家のコメントが添えられてあった。

秘かに進行していた(日本人初男子陸上100メートル夢の9秒台)プロジェクトは、 一気に(世界記録更新)へのプロジェクトへと変化を遂げたのだった。

つづく

※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。

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