「ですから今回の話。それまでの逆なんです。いわばご褒美みたいな。そういう風に考え直して頂けませんでしょうか」 森野常務が放った言葉に、河本は一瞬だけ反応をみせた。だが、再び考えこんでしまった。沈黙が続いた。 何事も即断即決が信条の男にしては珍しい。いや、不思議な感がする。 条件が良すぎると思われた今回の契約話。だが彼にとっては厄介な懸念事項だというのか。 階下からは学生たちの賑やかな声が聞こえている。しかしここ8畳の和室では、妙な静寂のまま重苦しい空気が流れた。 その静寂を破るように山根が 「森野はん、すぐに答えを出さんでもええんでっしゃろ」と訊いた。 「そりゃあ・・・もちろん。。。ただ私どもとすれば、できるだけ早く頂戴するに越したことはないのですが」 「そらあお宅さんの勝手な都合や」 「えぇまあ・・・」 森野はうつむいた。
「ひとつ良いですか」 ようやく河本が顔を上げた。
「えぇ、何でも仰ってください」 森野も顔を上げた。 「契約期間・・・・」 「はい、3年。。。とりあえず3年ですが、延長と言いましょうか更新も当然有り得る話です」 「あ、違うんです」 「は?」 「3年は長すぎます。ご存じかどうかあれなんですが、モスクワが終われば白浜へ戻る条件なんです」 「あぁ。もちろん伺っております。契約を盾に白浜まで追いかけ、追加の依頼とか一切ご迷惑はお掛けしません」 「そこ、それなんです」 「は?」 「それが許せない部分なんです」 「と、申しますと?」 「あ、いや俺自身の問題として。俺とすれば、契約の期間中は見合うだけの目一杯の仕事、すなわち陸上を続けたくなってしまう。けどそれて、従業員達との約束を破ることになる。また迷惑をかけてしまう。かたや一方で。。。大学や陸上部にとればシューズの無償提供が3年。。。。それはそれで魅力的な話なんです。ですからどっちを取るべきか」
(なるほどそう云うことで・・・)
「それに。。。」 「えぇ」 「どう考えても1千万はべらぼう過ぎます」 「あ、その点はどうか気になさらずに。決して無茶する額じゃないのです。私どもにとって。それなりの採算をもくろんだ上で。。。あ、この言いかた大変失礼ですね。ですがこの際本音を言わせていただくとですね、日本人初9秒台という快挙を成しとげられた貴方。言うまでもなく日本じゅうで注目の的です。あいや今朝のニュース、ご覧になられました?」
「いやテレビは見ないっす」河本はかぶりを振った。 「朝のニュースによりますとですね、ボルトを始め、世界のトップアスリートや陸上関係者からも注目の的だとか。彼らは貴方を驚異のライバルと捉えて非常に意識してられてるようなんです」 「まさか」 「いえ本当でしょう。だって先日の、あのつまづきスタートであのタイム。彼らにとっては、驚き以外の何物でもないのです。突然現れたライバルに脅威を感じられてるようなんです。あ、余談になりましたけど、要するに世界からも注目の貴方にですね、ブランドの広告塔になって頂く。ただそれだけで、一気に知名度はアップします。何せチャレンジスピリッツは日本じゃ全く馴染みの無いブランドですから。私どもにとって、計り知れない効果をもたらします。そう見てまず間違いないと、確信しております」
「・・・・・・」
「あ、あと・・・・付け加えるとですね、山根さん」 「あはぃ」 「モスクワです」 「モスクワが何か?」 「世界記録の更新です。その為にもチャレンジスピリッツが持つノウハウ、それに私ども商社が持つ情報網の力。きっとお役に立つはずです」 「と申されますと?・・・」 「完成目前までこぎ着けてるのですが、世界一軽くしかも全天候対応型のノンスリップシューズ」 「ほーう、ノンスリップ・・・」 「大会が行われる今度の競技場のトラック、独特なクセがあるのはご存じで?」 「いや、そこまでは」 「晴天だと何も問題ないのですが、ほらもしも先日のような天気、雨でも降られた日にゃ、微妙に滑るのです。折角のパワーが生かされません」 「なんとまあ。しかしなぜまたそんなことまで?」 「あ、私と云うよりリチャード会長の力です。と申しましょうか彼の執念です。世界じゅうの競技場、世界中のスポーツを制したい、という夢に燃えてられてます。そこに私どもが持つ資本や情報網もお貸しして居る次第で」 「なるほど、リチャード。。。」 山根の場合、リチャードの名前が出るたび反応を見せた。 だが、問題は河本。。。肝心の河本がどう判断するかだ。 河本は微動だにせず下を向いたままだ。結論は先送りか、そう思った瞬間
「森野さん」 声には力強さがあった。
つづく
※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。
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