5月末から6月にかけ、私の周辺でも急に慌ただしさを見せ始めた。 またもや、文芸新春社編集部三好菜緒子からの電話が始まりだった。
「寺島さん、来週上京されますよね。ジャパン陸上」 「えぇもちろん。今のところ8日、午前中を予定してます」 河本の世界陸上選手権モスクワ大会への出場は、決定したのも同然なのだが、一応内定の段階だった。原則として6月開催のジャパン陸上選手権。これの決勝に残りなおかつ上位成績者。と云うのが日本陸連が設定したモスクワ派遣の条件だった。予選は6月8日土曜の午後から行われ、決勝は翌9日の予定だった。河本効果もあって前売り入場券は例年にない売れ行きを示していると云う。つまり、日本陸連にとって河本は大切な招待客スター選手でもあった。
「東京入り、一日早めていただけません?」 「え、まぁ。でもなぜまた。。。」 「Nine.secの件で少し。。。」 「先日、続き分はメールしましたけど、着いてないですか?」 「あいえ、無事着いております」 「じゃあ、わざわざ。。。8日三好さんも競技場に来られますよね」 新春社、東京本社はすっかりご無沙汰だ。そろそろ挨拶に行かねばならないと思いつつ、どうもあの騒然とした雰囲気は苦手だ。新聞社時代を思い出しツラいものがある。 それに。。。一日分増える宿泊費。。。これが結構痛い。 「8日は勿論行きます。けど一日でも早く、打ち合わせしたい案件が・・・」 「電話かメールじゃあダメですか?」 「じつは。。。実物を見ながら進めたいモノなんです」
「え、何ですの?」
すると、
「”Nine.sec 夢への挑戦”これの装丁案なんです」
「はぁ!?まだ早いでしょう」
「それが。。。一日も早い出版をって、出来れば6月の中頃までにって。。。上から。。。」
「んなぁ。。。悪い冗談を」
「いえ本当なんです。編集長をはじめ上層部から毎日のようにセッツかれ」
彼女の声には切迫感があった。
「そりゃあありがたい話です。けど肝心の原稿が。。。チャレンジスピリッツとの契約調印式のところで終わったままです」
「えぇ承知してます。でも当初の狙い、”日本人初の9秒台”これについてはすでに達成したのだから、即出版すべきだ。って会社からも」
「なんとまぁ。。。確かに。。。けどモスクワもまだ。。。あ、いや来週のジャパン選手権ですら。。。せっかくここまで来れたのだから、あそこで終われば中途半端だと思います」
「まったく同じこと、上に申し上げました」
「ありがとうございます。じゃぁもう一度お願いしますよ。説得」
「えぇ何度も何度も連日。。」
「・・・・・・・」
そうかも知れない。彼女の性格を考えたなら、私以上に強く説得したはずだ。
出版の権利は新春社側にある。私からこれ以上言えない。と云うより、ここは素直に喜ぶべきか。
だがやはり。。。
「前作のようにあとで悔いを残したくないんです」 「それは同じ気持ちです。で、ですね寺島さん」 「あはい」 「たとえば上下二巻としてですねモスクワが始まる前に前編。モスクワ後に後編。これでどうかと編集長に」
え!
「そらあ自分とすれば願ったり叶ったりな話ですけど。。。」 「了解いただけます?」 「了解も何も、ありがたい話です。けど本当ですか」 「承認は得てます。二巻でも三巻でも良いから、とにかく一巻目の出版を早めろ。って」
※ その後2、3日は変更のきく予定はすべてキャンセルし、飛び回る日々だった。 ノンフイクションの場合、原則として実名を出さざるを得ないのだが、それが不自由でもあった。取材の段階から関係者には出版の旨は伝えていたものの、イザ出版と決まった今、再度の確認作業を要した。万一“抜け”があった場合、本人にも出版社にも迷惑をかけてしまうコトになる。
再びの船場商事本社ビルだった。 受付で待っていると、前回と同様、森野常務本人が降りて来た。 「先日はどうもおかげさまで」 相変わらず腰が低い。 「いえ、こちらこそ。お忙しいところのお邪魔、申し訳ございません」 「良かったですね出版も正式に決まり」 「ありがとうございます」 「じゃあ早速、行きましょうか」 云いながら森野は右手で上を示した。
「あ、良いですね。お願いします」 あの絶景が見える会議室フロアー。。。。
と思いきや、案内されたのは最上階の社長室だった。
つづく
※ 言うまでもありませんが、
当記事は フィクションです
万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。
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