小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの花が散ったあとに 38

地下鉄の階段を上がり、え!と思わず左の袖をめくり上げた。
なんだやはり。だが6時を回っていると言うのに、この昼間の明るさは。。。

知らないうちにも、季節は着実に巡っていた。

夕方、時として昼間から深夜まで、テレビ局の一室に缶詰になり、延々と続く打ち合わせや会議。それへの参加を余儀なくされていた。それは1月の半ば過ぎから始まり、夕方といえど、外は真っ暗。従って午後6時と言えば、真っ暗闇なイメージがあったのだ。
その厄介仕事も先日ようやく終え、さらに。。。。
出掛けに、プロデューサーとの電話のやり取りを思い出し、思わず顔がほころんだ。
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「寺島さん。ついにヤッターです」
「いきなり何ですの」

「喜んでください、江藤さんからOKがきました」
「え。本当ですか」
江藤AMPM。。。まるでコンビニの名前のような、ふざけたギャグだけが売りの、あまり冴えない中年コメディアン。
だが、いつだったか、文芸新春社編集部の三好に誘われ、いやいや観に行った舞台。
シリアスな古典劇を現代風にアレンジした舞台。それまでのキャラクターとは180度違う演技に、心を揺さぶり、惹きつけられるモノがあった。とうとう最後までひと言のギャグも出なかった演技は、強烈な印象を私の脳裏に焼き付けた。
(任侠探偵のテレビ化)その話が降って湧いた時、真っ先に浮かんだのが、彼の主役への抜擢だった。
それなくしてドラマ化のお話は一切受けられない。それだけが私からの唯一の条件です。
そう強く主張したのだった。

「えッ。あの江藤ですか?」
最初、眼を丸くさせ、驚きを隠そうとはしなかったプロデューサーだったが
「なるほど、それはそれで評判を呼ぶかも」と、あっさりと受諾。
ところが、なぜか当の本人からは、「二枚目キャラは、今までのファンに申しわけない。裏切り行為です」
そういう変な理由から、頑として受け付けてもらえず、出演交渉が難航していたのだった。
主役が未決定なままと云う、前代未聞の制作が進んでいたのだった。

「決めてはギャラですか」
もしそうなら、少しがっかりするところだった。

するとプロデューサーは、
「子供さんのひと言が利いたみたいです」
「えッ彼は家族持ち?」
「あ、当分オフレコで」
「え、えぇ勿論」
「で、この春に中学に上がった娘さんが居るみたいですけどね、(いつまでバカキャラをやってるの)て、つい先日も言われたのがショックだったみたいです。」
「なるほど」
「ですから、今回の抜擢話。本人には渡りに船て云うか、大声で涙を流すほど、喜んでくれたみたいです」

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約束の7時には余裕がある。バー鳥越に向かう前に、大井屋の敷地跡だけを歩くつもりでいたが、少し足を延ばせば吉富病院、さらにその向こうには、あの石坂家があった場所も、そう遠くないことに気づいた。

西の空には夕暮れ前の気配が忍び寄ってはいた。だがやはり、森野と合う前に、どうしてもミモザの風景をこの眼で確かめて置きたい。いやそうすべきだ。
そうすることで、彼が経験してきた、ミモザの世界に、一歩でも近づくことが出来るし、
何より、そうすることが、回顧録を快く引き受けてくれた彼への礼儀だと思ったのだった。


            つづく

※ 言うまでもありませんが、
当記事は フィクションです
万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。
あと、ついでに言わせてもらうならば、これは「ミモザの咲く頃に」シリーズの続きでもあります。

(-_-;)