小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

そして、池上線45

「覚悟は良いかしら」

「覚悟と仰いますと?」

「離婚後の30年。。。。語らせてもらいます。今から。。。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「あ、すみません上着脱いで良いですか」

そう言われて初めて気づいたのだが、律儀な馬渕は二つのボタンまで止めて居た。

私の30年を受け止めるには、熱ざましが必要と悟ったのだろう。

 

「どうぞどうぞ、なんならネクタイも」

「あ、いやそこまでは。。。」

朝方は冷え込んだのに、何やら暖かく湿った空気が充満し息苦しくさえ感じられた。

かと言って窓を開ければ日本海からの潮含みの風がうるさい。

こちらも。。。久しぶりの和服だったが、さすがに窮屈だ。折を見て着替えるとするか・・・・

 

「まず。。。。」

覚悟を決めたのはこっち側のはずなのに、次のひと言がなぜか急に言い出せない。

え、まさか過去に縛られている?まさか。

でも・・・・どうしたものか、あれこれ逡巡していると

「たしか、最初に移り住んだのは台東区。。。でしたね」

馬渕が切り出してくれた。

そうなのだ。うっかりしていたが馬渕は一通り把握しているのだ。。。

今さら隠して何になる。。。そう思うとようやく吹っ切れた気分になった。

 

「ひょっとして現地調査はされたのかしら」

そう云うと馬渕の顔はやや赤らんだ。

「えぇ、すっかり飲屋街に様変わりしてました」

 

「あら、昔からもそうよ。飲屋街のど真ん中。店の名前ルージュ。。。ひょっとして今もあるかしら」

「え、じゃあ、やはり。。」

「うわ。まだあるんだ」

「あ、いや流石にオーナーとか名前は変わってます。昔の資料で確認。。。」

「やはり前職は刑事さんですのね」

「あ、いやまぁそのぅ」

畳んだ上着のポケットをあれこれ探りハンカチを取り出し額の汗を拭いている。

この狼狽えぶりこそ、人情派刑事だったことを証明している。

「おんな35歳、手っ取り早く金を稼げ、しかも寮もある職場なんて、ザラにあるものじゃなくてよ」

「しかしなぜまたキャバクラ。。。あ、決してキャバクラが悪いとか良いとか、云うつもりなど。。。。」

「くすっ」

「はい?」

「正直ですのね」

「え」

「顔に書いてありますわ。キャバクラへの偏見」

「と、とんでもない。わ、私はただ。。。」

「ただ?」

「あ、貴女ほどの経歴の持ち主。。が、そのうなんて云うか。。。。あ、慰謝料とか出なかったのですぅ?

あ、なんかまったく余計なこと聞いちゃいました」

「まったく余計な質問ですわ」

 

そう云うと馬渕は叱られた子供の泣き顔になり

「あー。す、すみません」

テーブルから飛び下がって畳に額をこすりつけた。

「あ、どうぞ顔をお上げに。。。。で馬渕さん」

「は、はい」

「高野の話だけは、あまり思い出したくないですわ」

「す、すみません」

「でも誤解されておられるようですから、ひとつ申し上げておきます。慰謝料はそれなりに戴きましたの」

「え、じゃあなぜ」

「離婚こそ良いチャンスだと気付きましたの。独りでどこまで生きていけるか。どこまでやれるか、自分を試すチャンスだと」

「けれど、何もいきなり水商売の世界など」

「やはり偏見をお持ちですわね」

「い、いやそんな。決して。。」

 

「あはは。実を言うとこの私こそ偏見を持ってましたの。いきなりどん底に落ちちゃえ!なんてね」

「。。。。。。。。。。。。。。。。。」

「でも」

「でも?」

「まったくの偏見以外の何ものでもありませんでした。当時の同僚たちこそ、一番のよき思い出ですの。本音だけで生きる女のなんと逞しく、美しいことか」

 

「。。。。。。。」

「まだ疑ってらっしゃる?」

「いえ、とんでもない」

「で、ご存知のように”出逢い”の場でもありますのよ」

馬渕はしばらく考えていたが

 

「で、でしょうな」と大きく頷いた。

 

「今の私を決定づける運命の出会いがありましたの」

 

 

つづく

 

 

今更ながら、言うまでもありませんが、当シリーズはフィクションです。 従いまして、地名、名前 等はすべて架空のものです。万が一 同姓同名同社の方が居られましても、なんら関わりは御座いません。※なお当シリーズで使用の画像は 写真素材 足成様より頂いています。