小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

そして、池上線66

「え。憧れの池上線?て、あの池上線」て訊くと

馬渕は静かに

「えぇ、あの池上線です」と答えた。

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5月のゴールデンウイークを前にして、日々の業務は多忙を極めた。

受注、発送、帳簿、取り次ぎや書店への営業活動、などの日常業務。そして一番重要と云われる次なる刊行物の企画立案。。。

当然だが、それらありとあらゆる仕事を独りでこなさねばならない。猫の手でも借りたい。心底思うことがある。だが、周囲の反対を押し切ってまで敢行した独立。安定した経営が見込まれるまでは、人件費の余裕などゼロ。おそらく向こう5年間は赤字経営の見込みだ。それより何より自分のことで精一杯なくせに、他人(ひと)の人生まで抱え込める余地などは一寸の隙もなかった。

このような時、頼れるのは、同じような悩みを経験し、乗り越えてきた独立経営者だ。文芸新春時代からの付き合いで、同じように独立出版した人たちにも何かと世話になることも多いが、やはり同業がゆえの遠慮が常につきまとう。心から頼れるのは異業種。とりわけ、探偵事務所の馬渕憲一とは、心からの親友と呼べるほどの仲になっていた。自宅が近いこともあり、その後私たちは、かなりの頻度で顔を合わせるようになっていた。

場所としては高円寺の喫茶店“シャンボンの背中” あるいは“BAR荻窪”のどちらかだったが、回数の点で言えば、小遣い的に安上がりで済む、シャンボンの背中に軍配があがった。

「じゃあシャンボンの背中21時で・・・」

いつも以上に馬渕の声は弾んでいた。お見せしたいものがと言った声が耳に貼り付いてしまい、ふとした仕事の合間に何度も脳内でリプレイされた。いったい?と気にはなったものの、どうせまた。。前回は、西島三重子の池上線にまつわるネット話のプリントだった。馬渕とは歌のテーマのことで、ちょっとした言い合いがあった。

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「西島三重子の池上線。高3、青春の想い出なんです」

「え。でもあれ不倫がテーマなんでしょう?」

すると馬渕の顔色が変わった。

「まさか。そりゃあない。絶対ないです。若い恋人同士の哀しい別れがテーマなんです」

珍しく馬渕がムキになって反論した。

「え、でも高野。。。吉岡さんも不倫がテーマだと」

「なんなら今度証拠をお見せしましょう」

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てっきり不倫がテーマだと思って居たが、実は若い恋人同士の別れがテーマだったらしい。作詞者の経験から生まれた詩だけに馬渕の説が真実なのだろう。高野さんもその勘違いには気づかなかったと言うのがなんとなく可笑しい。

馬渕は定席となった奥の席で何やらマスターと話し込んで居た。今や、私以上にマスターとは親しい常連客になって居た。

「なに盛り上がってますの?」

「あ、らっしゃい。何時もの?」

マスターは声をかけ立ち上がった。

「えぇお願いします」

馬渕は珍しくラフな格好をしていた。

「お待たせ。で今日は休み?」

「えぇまぁ。ぼちぼち身辺整理など。。」

「!。。じゃあいよいよ引越しの?」

「えぇ。ただ、ふたつみっつ、残した仕事を片付けてからになります」

「じゃあ、たか。。いや吉岡さんの承諾も?」

そう訊くや、馬渕はとびきりの笑顔になった。

「お陰さまで。。。でも今後について、正式な詰めとかの話。展示会が終わるまでは無理みたいです。今かなりハードスケジュールだとか」

「え、展示会?」

「えぇ。是非佐伯さんにって」

言いながら馬渕は、最近身に付け出したリュックからハガキを取り出した。

「あ、どうも」

京都市内で行われる、新人創作展の案内だった。陶芸家の登竜門とも呼ばれる、伝統と由緒ある展覧会の案内ハガキだった。丹後焼窯元 吉岡紫織 の名前がしっかりと。

「これに出品とは・・・・」

しばしの間、黙ってハガキを見つめていた。

すると

「佐伯さん一緒に行きませんか、京都」

かけて来た馬渕の声に、どきりと胸がなった。

      つづく

今更ながら、言うまでもありませんが、当シリーズはフィクションです。 従いまして、地名、名前 等はすべて架空のものです。万が一 同姓同名同社の方が居られましても、なんら関わりは御座いません。