小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

そして、池上線71

雪が谷大塚の改札を通り抜けると同時に時計を確認すると18時40分だった。西崎宅へ訪問まえ、馬渕事務所での待ち合わせ。その約束の19時ちょうどには少し早い気もしたが、そのまま足を向けた。

雑居ビルを見上げながら、(今夜が最後・・・)そう思うと何やら感傷的な気分さえこみ上げる。7階へのエレベーターに乗り込む時、ふいに森島碧の面影がよぎった。ん、なぜ?あぁそう言えば・・・初めて馬渕事務所を訪れた日、森島は西崎の代理としてこのビルで。。。

ドアをノック。すぐさま向こうから、はーいと馬渕の声。だがカチャとドアが開き、出迎えてくれたのはその森島碧だった。「え!」てっきり西崎宅での再会を予想していたものだからしばし呆然と立ちすくむ。

すると森島はにっこり笑みを浮かべ「さ、どうぞ中へ散らかってますが」と言った。ジャージにエプロン姿。マスクに軍手、まさに引越し手伝いの真っ最中と言ったところか。「あ、どうも忙しいときにすみません」

ん?なに謝ってるんだ俺

中は散らかるどころか、すでにがらんとして居た。ダンボールの山は部屋の隅に積み上げられ、事務所の備品はといえば1組のソファーとテーブルがぽつんと。テーブルの上にはコンビニ弁当の空箱とペットボトルの茶が乗っていた。

「いやあ、申し訳ない」

手でも洗ってきたのか、タオルをせわしなく使いながら馬渕がやってきた。テーブルにようやく気づき、「碧ごめん、ここ片付けてくれる?」と奥に向かって声を張り上げた。

呼ばれた森島は「うあ、失礼しました」真っ赤に頬を染めながらテーブルを片付け「コーヒーすぐお持ちします」と言った。

「あ、どうぞお構いなく」

立ち去るのを見届け、馬渕に「彼女には言ったのですか、再婚のことも?」と訊いた。

すると馬渕は照れながら「えぇ」と応え、「実の娘以上に、最大の勇気が要りました」と笑った。

「じゃあ、もしや彼女の口から西崎先生には」

「あ、それは無いと思います。口は堅い子ですから」

「なるほど。でもさぞかしショックだったでしょうね」

森島は、今でこそ西崎とも代に請われる身だが、馬渕は実の父親も同然。いやそれ以上の存在だろう。

にこやかだった馬渕の表情が一変した。

「佐伯さん」

「え、えぇ」

「お願いします。この通りです」言うや馬渕は深々と頭を下げた。

「え?」

「くれぐれも碧のことを・・・」

「え。えぇ。そりゃあまぁ。でも今は西崎先生が」

「そりゃあもちろん、西崎先生には全幅の信頼をおいてます。でも。。」

「でも?」

「いくら西崎先生といえど、女性。母親には成れたとして、父親には成れないもんです、イザと言うときの父親がわりが必要なんです」

「は、はぁ」

「ですから・・・この通り、お願いいたします。佐伯さまが、あの子の父親代わりに。。。自分勝手なお願いごと、重々わかっております。こんな事お願い出来るのは佐伯さましか考えられないんです、ですからこの通り。。。」

ガツンと頭をぶん殴られるような気がした。

つづく

今更ながら、言うまでもありませんが、当シリーズはフィクションです。 従いまして、地名、名前 等はすべて架空のものです。万が一 同姓同名同社の方が居られましても、なんら関わりは御座いません。