小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

狂二4 NINE.sec その19

[す、す、スゴイです。加速走ながら100メートル。 9秒8が出ましたあああああ!]

鈴木圭子の興奮ぶりが聞こえてきそうな携帯メールだ。 彼女とメールのやりとりをし始めた頃はお互いに遠慮があったのだろう。まるで会社の業務連絡のような文面だった。 何回かメールをやりとりするウチ、最近は顔文字を入れるなどしてきてはいた。 だが今回のメールはストレートに彼女の息づかいが聞こえて来るようだった。

ソファーからガバッと跳ね起き、返信メールを試みた。が、こちらも軽い興奮があった。指先が震え文字入力がままならない。 10文字ほど言葉を打ち込んだ時点で(メールを打ち込む余裕があるなら、電話にも出られるのでは?) と、ようやく気づいた。メールはあきらめ、登録番号を呼び出すことにした。


携帯を左手に持ち変え、窓側に立った。 強めの風が吹いているのか街路樹が大きく揺れている。そしてこの秋、長いあいだ目を楽しませてくれた銀杏の黄色い葉はすっかり散ってしまっていた。 だが彼女との会話を思うと心が踊った。

・・・・・ 「はいっ鈴木ですッ」 予想通り、ワンコール数えるかどうかのタイミングだった。弾けるような声が響いた。 「ども寺島です。メール拝見しました」 「どうも失礼しました。執筆中でご迷惑じゃなかったですかぁ」 「とんでもない。お気遣いありがとう。ちょうどひと区切りついたとこやったです。で、9秒8って当然河本君。。。ですよね」

すると 「あ」と短く叫んだあと、しばらくコロコロと笑い声が続いた。 「え、どうされました?」 「あはは、すんません肝心の名前。。。もち河本君でぇーす」 「!」 こんなにも明るい声を出す人だったのか。と、つい感慨にふけってしまった。グランドではよく通るが落ち着いた声。冷静沈着を絵に描いたような。。。たとえば能面的にすら見えるときもある普段の表情からは想像できない。 が、私との会話を愉しむと云うより、それはきっと河本が出した記録に興奮しているのだろう。

窓側を離れ再びソファーに深々と腰掛けた。

「9秒台と云っても加速走ではよくある話では?」 お互いの興奮を鎮めさせるように訊いてみた。 「そんなことないです。おそらくウチの部始まって以来のコトで。」

先ほどの風を思い出した。 「風、風はどうでしたの?追い風参考と云う奴とか?」 だが 「それが全然。向かい風だったです。だから本人は勿論、監督もそらあもうビックリで。。。」

ついに河本の真価が発揮されたのか。 じわりと感動と喜びが突き抜けるものがあった。

「今、部室?河本君は近所にいます?周囲は静かそうですが」 近くに本人が居るなら声をかけてやりたいと思った。 「あ、すみません隣の部屋でミーティング中なので。あとで電話するよう伝えておきます」 「申し訳ない、お願いします」 ふとムツゴロウ教授の顔が浮かんだ。 「教授もさぞかし喜ばれたでしょう」 「あ、顧問。。。顧問にも連絡しておきます。今日に限って不在だったです。学会の用事で」 「そうですかそれは残念。でもムツゴロウ教授あなたの連絡をお聞きになるときっと喜ばれるでしょう」 彼女に一瞬の沈黙があった。 「はぁムツゴロウ・・・?」 「あ いやいや。君たちの世代ではご存じないでしょうけど、動物博士の畑さん」 そういうや 「あーあの人。。知ってますぅ。た、たまにテレビ出てはりますぅ。あーなるほど。。。 そのあとしばらくは、電話の向こうで弾けるような笑い声が続いた。

ひと区切りで終了させたWordだったが、再び起ち上げた。

完璧な走行フォームを会得した河本に、山根は期するものがあり、予感があったとのコトだった。 練習終了間近、今日の予定にはなかった加速走が急きょ行われたらしい。 いつもと同じメンバーでの走行。河本はついに篠塚を振り切りトップでゴール。ストップウォッチは?と確認すればなんと10秒の手前。。。 手動での計測ゆえ正確なタイムは何とも言えないらしい。が、向かい風の中、あの篠塚君を振りきった事は揺るぎない事実という。

ただ。。。。。 彼女との会話でひとつだけ彼女の声が曇った。

「河本君、残る唯一の課題が、“スタート”。これの克服がなかなか思うように行かないようで。。。」

「まぁ最初からうまく行くなんてあり得ないモノです。ひとつぐらいの困難があった方が」

彼女にと云うより、自分へのなぐさめ言葉だった。

「ですよね」

だが、後々も「スタート」に苦労させられるとはこの時点では知る由もなかったのである。

つづく

※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名

、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はござい

ませんので。

(-_-;)