小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

狂二 Ⅲ 断崖編 その28

2010年3月31日 夕暮れ

浩二は雲の向こうの、かすかに見える太陽の動きから「時」を測っていた。 が、とうとう、はるか彼方海の地平線に沈もうとしていた。

もう夕暮れだというのか。あれから4時間以上経過している。 登っても登っても、一向にさき(頂上)の見えない断崖。 さらに、降り続ける雨、時おり“あおる”ように吹きあげる風が二人を悩ました。 ポンチョ代わりのブルーシートがパタパタと揺れた。 脱ぎ捨てたかったが、降りしきる雨に濡れ、体温を奪うことを考えると やはり我慢するしかなかった。

「平滑な壁面だったら俺たち終わっていたぜ」 頭上の29号と呼ばれる男が云った。

「この起伏が正解か」 浩二が呼びかける。 「ああ、雨の中、普通なら絶対挑戦しない高さだぜ。このギザギザが幸いした」 スタート地点の崖の下からは、よく見えなかったが、かなり起伏にとんだ岩肌だった。 なかにはカミソリのような鋭利な岩肌もあった。 その分、浩二の手のひらや、指先はかすり傷でうっすらと血がにじんでいる。 潮を含んだ雨が吹きつける。傷口に沁みわたり、かなりな痛みを感じた。 もちろん滑らかな岩がほとんどであり、雨に濡れた岩肌、少し油断するだけでツルっと滑ってしまい、ヒヤッとする事がしばしばだった。


「決して下を見るな」 何度も男が呼びかける。

(わかってら) そして何度も心の中で返す。

頭の中で高さを測ってみた。 (少し前に休憩した中腹の松の木。さらに登った筈だ。かれこれ40メートル。 高層ビルほぼ13階分か・・・) すでに半端な高さじゃない地点まで到達していた。

突然、男の動きが停止した。

それまで、ごくゆっくり慎重に、それでも一定のリズムを保ちながら登っていたのに、完全に停止したままピクリともしない。

「おーい。こんなとこで休憩か」 停止した場所は、斜度80度、ほぼ垂直な壁面だった。

「やばい、引っかけるホールドが無い」

最初その言葉を浩二は、ぼんやりと聞いた。 だが、言葉のもつ深刻さを理解したとき、体じゅうが震え始めた。 生まれて初めての経験といっても良い恐怖感だった。

心なしか、動きの停まったままの男の足も、微妙に震えているように見えた。

(落ち着け、落ち着かねば・・・)

「夕闇で見えないだけと違うのか」 実際、あたりはすっかり暗くなっていた。

「ちがう、スラブや」 「スラグ?」 言葉の意味を知らない浩二が訊き返す。

「スラブ。平滑でペロンとなった一枚岩のことや。この上の岩」

「そんな・・・・」 雨で濡れた岩肌だったが、初心者の浩二でもここまで登れたのは“ホールド”と呼ぶ引っかかりの穴や、ほどよく突き出た岩があったおかげだ。 それなのに、滑り台のような一枚岩、どのように登れと云うのだ。

浩二からは頭上の様子は見えなかった。

その後、しばらく男はまんじりともせず、周囲を見回していたが やがて 「3つの選択肢がある」おもむろに云った。 男も 冷静さを取り戻そうと、必死なのだろう。

「3つて、何や」

「いちかばちか、このまま登る。二つ目は登れるルートを探しながら横移動をする。残るひとつは、引き返す。。。かだ」 二つ目と三つ目の選択は浩二でも理解できたが、 最初の言葉は理解できなかった。

「このまま登るて、できるわけないだろ」 下からつい怒鳴る。

「まあ、よく聞け」男も少し怒鳴ったあと続けた。 「よく見るとこの一枚岩は、なだらかな角度で向こう側に傾斜がついてる。あわてなければずり落ちはしない。コツさえ掴めば登りきる事は不可能ではない。それに、ほんの2、3メートルの岩や」

「それが、何だと言うのや、こんな岩、体験あるのか」 「ああ、経験はある。ただ・・・風雨の中、濡れた岩は初めてや」

雨であろうと、快晴であろうと、とても人間ワザとは思えなかった。

「横移動がベストではないのか」 「もちろん、それしか思いつかなかった。ただ、横に移動したところで、確実なルートの保証はない。横に移動するにも危険が伴う。初心者のお前ならなおのことだ」

「んな・・・三つ目の引き返すは?」 「下りは登り以上に危険が伴う。降りて行く足さきが見えない」

「・・・・・・・」 なるほど、云われてみると降りる方が危険と隣り合わせだった。 さらに云うならば、今の態勢では、降りる場合浩二が先頭になってしまう。 また、こんな所で引き返すなんて、これまでの苦労は何だったのか。

「一枚岩に挑戦。結局それしか選択の余地はないっちゅう事やろ」

しばしの沈黙のあと、ようやく出た呻(うめ)き声は、どこか遠く、 そう、 潮騒の向こうで聞こえた気がした。

※ 2010年3月31日 午後5時半 白浜冷凍事務所、応接室

佐々木の携帯が鳴った。 ディスプレイを確認すると ヒロシからだった。 「あ、失礼。ヒロシからですので」 栗原に断りをいれ携帯に出た。 「お疲れ。佐々木です」

・・・・・

「まだ白浜冷凍の事務所やが」

・・・・・・

「え、今どのあたりなんや」

・・・・・・

「そこからだと2、30分やと思う。ちょっと待て。。 。白浜の駅に着いたらしいんです。こっちに向かう。そないに云ってますが」 携帯の送話口を抑え、栗原に尋ねた。

「あ、是非。お願いします」 栗原が頷く。

「じゃあここで待たせてもらう。そっちの報告も聞きたいしのぅ」

携帯をポケットに仕舞うと 「終業の時間じゃないんですか」 電話中に鳴り響いた構内のサイレンを思いだし、栗原に訊いた。

「いつもならね」 栗原がいいかけた時、ぞろぞろと数十名ほど、事務所に入ってくる足音が聞こえた。

「よう、お疲れさん」 栗原が応接室の扉を開ける。

「今から終業のミーティングでも?」 佐々木が訊く前に 従業員たちが 「新社長、お帰りで?」「なにか連絡は?」 口々に訊いてきた。

「いやまだ何も。。。じゃけん、皆に紹介する。こちらの方は田島総業 高城社長の依頼で駆けつけてくれた探偵事務所の所長さんや。 すでに行方の手がかりらしきもの見つけてもらってる」

紹介を受けあわてて立ち上がった。 「どうも皆さん初めまして。紹介を受けました佐々木です。よろしくお願いします」 ぺこりと頭をさげた。

すると、どっと歓声が沸き拍手が起こった。 予想だにしなかった歓待ぶりに佐々木は思わず目頭が熱くなった。

「皆 河本社長のことが心配で、仕事が終わってもこうして駆けつけ、居残ってくれますのや」 栗原が応えた。

※ あたりはすっかり暗くなり、指先すら見えにくくなっていた。 右方向からは岩を砕く潮騒の音も、心なしか遠くに消え入りそうだった。

「やって見せる、よく見ておけ」 停止したまま 靴先をぐいぐい岩に押し付け、滑り具合を何度も確認していたが、ついに覚悟が出来たようだった。 いよいよ動き始めた。

「まずは深呼吸 全神経を集中させる」 浩二に言い聞かせるというより、自分に言い聞かせていたのだろう。

「かかとの位置は 岩に対してまっすぐや、そして下げる。つま先き、 要するに親指の付け根で立つ感触」 「手は 決してホールドを探し伸びきらないように。手は胸の位置が基本や、 岩にしがみつくのではなく、むしろ突き放す感じ」 「俺は右利きやから、まず右足を上げる。次 腰を右へ振り、尻を移動。 次 左足・・・・」 順順に云い(叫び)ながらも、着実に登って行ったのだった。

やがて ついに一枚岩を登りきった。

「やったぜ・・・」 小さく声が聞こえた。 そのあとしばらく岩にしがみつき肩で大きく息をしていたのだろう。

「はあはあ・・・」 かなり上の方だったが、下で見守る浩二にまで男の激しい息遣いが聞こえてた。 それ程の安堵感を吐き出す、大仕事だったと云うのか。

「いよいよ俺の番・・・」

息を呑む。 体の震えはいつしか停まっていた。

つづく

※ 当記事は フィクションですので 万が一、実在するいかなる個人、団体、地名とも 一切の関係は ございません

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