小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの咲く頃に その11

「お待たせ・・・」 部屋を出ていた美央が戻ってきた。 両手で抱えたトレーには、色とりどりのモノが満載している。 昨夜は無かったと思う。部屋の隅に置かれたガラステーブルにトレーを載せた。 (この為に用意していたのか) 「どうぞこちらへ、立ったままですけど。お口に合うやろか」 テーブルに歩み寄った。オシボリに、美味しそうなサンドイッチやらアイスコーヒーやらがトレーから溢れていた。 僕らは胸の位置まである高いテーブルを挟み、向かい合うように立った。 「うわあー美味しそう」 喉の乾きと同時に空腹でもあったから、素直に感動した。 「昨晩は残念でした。サンドぐらいなら食べていただけるかと思って。好き嫌いは無いですよね」 「え、わざわざこれを君が?」

オシボリで手を拭い(ぬぐい)ながら訊いた。しかしまあ昨日も感心したけど一般家庭でオシボリは珍しい。どこでどう温めたのか、気持ち良い熱さに蒸れている。

「ええまあ、あとでお腹こわしても知らんけど」 「そんなあ、全然大丈夫やから。いただきます」 ひとつつまむや、大口を開け放り込んだ。 一口で食べられるよう、小さめに切ってあるのが嬉しい。ゆで卵と、軽く焼いたベーコン。みじん切りのニンジン。ドレッシングたっぷりなレタス。それらをこんがり焼いたパンで挟んであった。絶妙な味のバランスが口一杯に広がった。とてつもなく美味い。

美央は一切れを食べ終えるまでじっと見ていたが、僕が満足そうに食べ終えるや、ようやく安心した表情を浮かべた。 「すごく美味しいです」アイスコーヒにフレッシュをかき混ぜ、ストローで啜った。 これまた美味しい。インスタントなんかでは決してない味だ。 「本当?」 「ええ、喫茶店とかのより全然美味しいです」早くも手は二つ目のサンドを掴んでいた。二つ目はカツサンドだった。それも高級なステーキ肉の味がした。サクサクの衣(ころも)は揚げたての感触が残っていた。涙がこみ上げるほど美味しい。

「よかった、夕方ずっとかかりきりだったの。祖母に教えてもらいながらやけど」 「え?」 (わざわざ僕の為に?)の言葉は飲み込んだ。(まさかそれはないだろ) 「さっきから僕ばかり食べてるけど」 「え、ああご心配なく、作るとき味見しながらやったから、もうそれだけでお腹一杯になっちゃって、てへ」 ペロっと舌を出しアイスコーヒーをストローでかき回した。

(この仕草、表情・・やはりまだ子供・・・) そう、その時。僕は深く考えもせず単純にそう思ったのだった。

・・・・・

色々な会話で盛り上がった。 しかし 「高校、なぜ行ってないん?」 つい訊いてしまった時だった。 それまでの笑顔が消え、「う、うん」と云ったきり下を向いた。 慌てた僕は「あ、ごめん。人それぞれやから・・・云いたくないコト、云わんでもええから」 「ごめんなさい、そのうち・・・」 「あ、全然。話さんでもええやん。僕も人に話したくないコト、一杯持ってるし」 すると 「あーそれ、訊きたいやん、どんなコトやの」 無邪気な笑顔が戻っていた。 それからしばらく僕のドジ話で盛り上がった。ドジを踏んだ数なら人に負けない自信がある。彼女が最高に笑い転げてくれたのが、音楽は人一倍苦手な話。小学校の音楽の時間、人前で歌ったとき声が素っ頓狂に裏返り、教師を含め全員に爆笑されたこと、それ以来苦手になった事などなど。音痴で失敗した話を語り出すと際限がない。。。 またそんな僕が、ピアノを始め、昨晩は興奮した事や、今朝いつもより早く出社したこと、そんなどうでも良いような話を彼女は目を輝かせ熱心に聞いてくれた。すっかり彼女に笑顔が戻っていた。 ただ言葉を選ぶのだけは忘れなかった。思春期特有の微妙な脆(もろ)さとか、胸の奥にしまってるであろう何かを感じてしまったからだった。

腹を抱え笑い転げていた彼女は、つと壁の時計に目をやり 「あ、行けない。もう7時半。。。そろそろ続き。。。始めていい?」 「も、もちろん。くだらない話で貴重な時間を。すみません。それにごちそうさま。すごく美味しいかったです」 結局お皿のサンドイッチは一人で平らげてしまった。 「とんでもない。久しぶり。腹の底から笑ったのは。本当に楽しかったです」 テーブル上を片づけながら云った。

そのとき、ふと思ったのだった。この少女。。。裕福な家庭に生まれ、おそらく若くして世界でもトップクラスのピアノの腕前を持ち、何不自由のない暮らしのもと、若き人生を謳歌して。。。と思いこんでいた。 だが、ご両親とは離れ今は祖母とたった二人だけの暮らし。普通に学校にも行かず(行けず?)刺激も少ない温室生活。とてつもなく他人には言えない寂しい気持ちが渦巻いていた のではないか。だから昨晩、しきりに食卓に誘ってくれたのだ。きっと。 (それなのに・・・)

※ 「確かこの店ですわ。ピアノあったと思う。で、なぜピアノにこだわりますねん」 繊維ジャーナルの木内が国光を振り返った。 二人は宗右衛門町、北の外れにある店の前に立った。 古ぼけた木の『バー鳥越』の文字が渋い。 「ほーう、雰囲気の良さそうな店や」 「らっしゃい」 髭をたくわえたマスターが声をかけた。グラスを拭く手は止まないまま。 人生の喜び、悲しみすべて知り尽くしている。顔に深く刻まれたシワがそう物語っている。

カウンター9席、テーブルが二つほど。決して広いとは言えない店の奥に小さ目のグランドピアノが置かれていた。 店内は3組ほどの客が居た。みな静かに会話を愉しみグラスを傾けている。 国光は一瞬でこの店とマスターを気に入った。

「マスター久しぶりっす、今夜はピアノ静かやね」 木内が話しかけた。 豪勢な店によくありがちなピアニストを常駐させ、BGMとして弾かせる。そういう類(たぐい)な店ではない雰囲気を醸しだしている普通のバーのようだが・・・

「はいあの子、しばらくお見えには。。。」 「へー彼氏でも出来たんちゃうやろか」 木内に訊くと、常連の女性がグラス片手に時折ピアノを弾いていたそうだ。 「え、客が弾いてもええのか」 「ひとつどうです」 マスターは笑顔を国光に向けた。 「いや、今はまだ・・・」 「はあ?まさか常務、ピアノがご趣味だったって云うんやないやろね?」 木内がオシボリで顔を拭きながら笑った。 「んなわけねえだろ」 国光もとりあえず笑いでごまかした。

「左のレッスンに入る前に、この楽譜みて」 いつものように楽譜を広げ、説明を始めてくれた。 まるで小学生に教えるかの説明だが、もちろん自分にピッタリな教え方だ。 「上に五線譜、そして下にも五線譜があるでしょう」 「は、はぃ」 前から気になっていた。楽譜は二段がひとつのペアになっていて、上の五線には“ト音記号”が頭についている。下の方は中途半端な“の”の様な記号だ。学校で習ったかも知れないがすっかり忘れている。トオン記号

「それで 上のト音記号の方が、高音で右手の範疇、下の“ヘ音”記号、これが低音部分、左の範疇を指示した楽譜なの」

「なるほど、両手の役割。これだったのか」 (ピアノをわざわざ両手で弾く意味がわかった) 「役割・・・ね。森野さんて、時おり面白い表現しはるけど分かりやすい言い方やん、子供らに教えるとき使わせてもらいます」

レッスンが再開した。 いよいよ左手の練習が始まった。 そして案の定なのだが、日常あまり使うことのない左の指。 想像を超える苦労が、そこにあった。 また 左だけならなんとかこなしても、左に加えて、右を同時に弾く。。

これはもう人間ワザじゃねえだろッ 泣き出したい気持ちだった。 逃げ出したい気持ちにも当然になった。 それを押しとどめたのはやはり、部屋中に拡がる心地よいピアノの旋律だった。

それと、若き教師石坂美央・・・我慢強く何度も何度も同じ所を繰り返し、教え続けてくれたのだった。

つづく ※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在するいかなる個人、団体、地名、とも 一切の関係はございません

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