小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの咲く頃に その37

目の前には石坂美央の笑顔があった。BGMのクラシックは二人の会話を邪魔することなく静かに流れ、23階から見下ろす大阪の街はあの雑多な喧噪が嘘のようにどこか牧歌的な風景を映し出している。梅雨明け宣言はまだにもかかわらず本格的にやってきた快晴の夏空は、薄っすらとオレンジの水彩絵の具を溶かしたような夕暮れに染まりつつあった。 おそらく年に数回訪れるかどうかの幸せなひと時。たまにはこんな日があったって許されるだろう。 コンサートの余韻もあってか、いつになくクラシック曲が心に染み込むように響いた。なんとも優雅で贅沢なひとときを僕らは過ごそうとしていた。 いや、過ごす筈だった・・・・ 「お待たせしました」
ウエイターが押してきたワゴンにはビールやグラス、オードブルなどが満載されていた。 あのシャンパン”サイダー”のボトルは氷をぎっしり詰めたステンのボウルから覗き、氷の水滴でびっしりと汗を浮かび上がらせている。 (おいおい、何もそこまで) 演出過剰ではないか。にやりと笑いながら眺めていると、ワイングラスを二人の前に並べ、彼は訊いた。 「シャンパンは先にお召し上がりになられますか」 「はいお願いします」すかさず美央が返事した。 「良く冷やしております。泡はあふれ出ない筈ですが」言いながら慣れた手つきでコルク栓を抜いた。しゅわ、静かに泡が盛り上がっただけだった。 ふっと安堵のため息をもらし、二人のワイングラスに注いでくれた。 (あ、俺ビールが良い) テーブルの隅っこに追いやられたビール瓶を横目に言おうとしたが、 ま、乾杯の一口だけでも。。。そう思い直した。 「ではごゆっくりどうぞ」 「あ、どうもありがとう」ウエイターに礼を云って 「じゃあ、あらためて美央さん、誕生日おめでとう。乾杯」 「ありがとうございます」と二人はワイングラスを鳴らした。 ほんの一口舐めただけで、 「こっちがええわ」とビールの栓を開けた。 美央が 「今日は私のために色々ありがとう」 テーブルの向こうで頭を下げた。 「いえいえどういたしまして」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ スープに始まり、魚、肉の煮込み、トリュフなど、これぞフランス料理の定番コースと言われる料理が一息つくごとに運ばれてきた。 「実は俺、フランス料理て初めてやけど、けっこういける」 「ええ」言いながら美央も器用にフォークとナイフを使い黙々と口に運んでいた。 (あの子、食が細いかも・・・) 祖母の美佐江さんの言葉が思い出され気にしていたのだが心配は杞憂に終わりそうだった。よほど口にあっているのか健啖ぶりを発揮していた。グラスを空けるスピードも早い。 「え、きょうは調子良さそうやね」 言いながらシャンパンサイダーを注いでやる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ どれほどの時を経ただろうか 美央はいつになく饒舌だった。一人で何事か言葉を発し、自分ひとりで笑い転げた。よく食べ、よく飲んだ。そこで気付くべきだったかも知れない。 え? 白かったはずの頬は赤く染まり始めていた。 「暑いん?」 「なーんもぜんぜん、れゆーか、森野さんは暑いんでしゅ?」 !? 彼女の舌がもつれていた。 なぜ・・・ よく見ると目が据わっている。普段の彼女は睫毛が人形のように長く、涼しそうな瞳は“愛くるしさ”があった。 だが、なにかの怒りを堪えているかの凄みが出ていた。 それでようやく気付いたのだった。 「あー、もしかしてこれ」 一口舐めて傍らに置いたままのワイングラスを飲んでみた。 一気に飲んだその瞬間、 うぐッ!ゲホッ。とむせてしまった。アルコール特有の熱さが喉の奥を焦がした。 あーあかんて。これ。 てっきりシャンパン”サイダー”。。単なる炭酸入り清涼飲料水のつもりでいたのだが、なんと本物だった。 知らぬとは言え、美央がグラスを空にするたび僕は注いでやっていた。 「あー、美央さん、あかんそれ」 だが、美央はきょとんとした顔で 「はぁ?何か」 「これ、本物のシャンパンや」 「そうよ今更なにゆうてん」据わったままの目つきで僕の方をにらみつけた。 「だってまだ未成年・・・」 あやうく周囲に聞こえそうな声だったが、はっと気づき声を落とし、 「未成年にシャンパンはまずい」 「何でやの?」 変な言いがかりなどよして。と云う風に僕を睨んだ。 先ほどまでの可憐な乙女の表情はどこかに消えてしまっている。 (ええか森野、何事も順調な時ほど、どえらいコトが起きるもんや) 国光常務の言葉がふと思い出された。 (まさしく。。。) 「シャンパンのアルコール度はビールより高い」 「それが何やの、フランスにおった頃、16の友達ら平気に飲んでたわ」 そういって、一口ごくりと飲み、フォークで突き刺した肉を口に運んだ。 (フランスに住んでたのか) 「フランスに居てたん?」 そう訊くと、いち、にいと、指折り数え 「もうさんねんになる、三年前に戻りたい。。。」 「まさかお父さんは商社マン?」 シャンパンから意識を遠ざける為、話題を必死に探した。 「ピンポーン森野さんらのライバル商社だったりして」 「え!そうなん」 「ブー残念でした。大使館勤め。。。今年からロンドンでーす。母も一緒でーす。わたしは独り日本でーす」 そう云ってテーブルに右手を枕に突っ伏した。今にも泣きそうに肩を震わせた。 今まで抑圧されてきた孤独感が急に爆発したようだった。彼女に同情の気持ちもある。 しかし、枕にしている手がすっとグラスに伸び、一口ごくりと飲んだ。 「あーあかんて、ここ日本」 自分でも法律にとらわれ過ぎるのは分かる。 がそれ以上に美佐江さんとの約束が頭をよぎり、何より彼女のか細い体が心配だった。 「もう終わりにしよ、身体にええこと無い」 「いやや」執拗に飲もうとする。 「あかん言うてるやろ」 グラスを押さえつけようとし、跳ね返される。その時、たぷんと揺れシャンパンがワンピースにこぼれた。 「あ、ごめん。でも。。。」 周囲の客がこちらの騒ぎに気づき一斉に振り返った。 だがそれどころじゃない。 「今更なにゆうてん。さっきまでグラスに注いでくれてたやん」 言葉にトゲがあった。 (知らぬとは云え、注いでやった自分の責任でもある) 心を突き上げるものがあった。 楽しいハズの誕生会がこんなコトになるなんて・・・ 何と言って良いのか。。思わずうつむいてしまった。 すると 「あーはは、まさか泣いてる?どれどれ」 身を乗り出し、人差し指で僕の顎を、くいっと持ち上げた。 さきほどのペンダントをクルクル回し、 「はーい、これ。あー目が回る。泣きやんでちょうだいな。くるくる」 あーはははと、ひとしきり笑い転げたあと 「く、苦しい。水、水が飲みたい、みずぅ、水はどこ?」 テーブルをあちこち手でバタつかせた。 (そう、とりあえず水、水や。彼女の酔いを醒まさねば) 必死にその方法を見つけようとしていた。。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日はすっかり暮れていた。 (けっきょく23階からの夕日、見そびれてしまったな) 地下街にあるゲームセンターでひとしきり発散し、クーラーの効く喫茶店で長く居座り、時間をつぶしていた。 美央の表情に少しけだるさが残っているものの、言葉遣いは元に戻りつつあった。 ふと、コンサート会場からの帰り、樹に囲まれた公園があったのを思い出した。 自然な風にあたれば酔いも完全に醒めるかも。 「なあ公園あったやん、そこでもう一休みしょ、歩ける?」 公園に戻るには少し距離がある。国道を渡る長い横断歩道があった。 「う、うん、ぜーんぜん平気。いやあ今日は楽しかった。森野さんどうしたん、浮かない顔して」 「・・・・・・・」 信号の手前で、美央が突然云った。 「森野さん、勝負しません?」 「え何を」 まだ酔っているのか、どきッと振り返ったが、瞳は元に戻っていた。 「この横断歩道。白い線だけを踏み、どちらの方が最後まで渡りきれるか」 彼女の言葉に、前方の歩道を見た。距離こそあれ、線と線の間隔は当然同じ。最初の一歩さえ間違わなければ楽勝に見えた。 「こんなの簡単や、楽勝やん僕の方が勝つに決まってる」 「あは、さーてどうでしょう」 いたずらっ子のような目で美央は笑った。 そして、ようやく長い信号機が変わった。 つづく ※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、などが出現しようとも 一切の関係はございません (-_-;)