小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

狂二4 NINE.sec その32

2013年5月19日は、わが国にとって歴史的な記録が刻まれた日だ。 とうとう陸上男子100メートル、10秒の壁を破ったのだった。 関西実業団陸上選手権大会が行われた会場は騒然となり異様な興奮に包まれた。 三浦教授が当初考えたもくろみでは、9秒台を出すのは早くて8月でのモスクワ大会だった。3ヶ月も短縮したことになる。 (何事も案件を持ち越すのは苦手ですけん) 白浜でつぶやいた河本の言葉が思い出される。親子ほど離れた年下の彼に習うことは多すぎるほど有る。そんな気がする。 ゴール付近で報道陣が河本を取り囲んだままだったが、むろん競技は続行中だった。審判団や大会関係者が注意に走ったものの、心なしか彼らの足取りは浮き足立っていた。 「寺島さん、これでモスクワ行も決定的です」 鈴木が云った。 訊けば日本陸連が独自に設定した世界陸上への派遣記録をも上回ったと云う。 「なんとまあ、いきなり。。。」 思わず(ハっ!パスポートの期限は?)との心配が頭をよぎった。
さて、続く組の池田直人、興奮さめやらぬ会場の雰囲気をものともせず、例のロケットスタート炸裂。真っ先に飛び出すや、そのままの勢いをゴールまで持ちこたえた。 タイムは10秒48での一位。なんと彼が大学3年生時に出した記録を更新したと言う。 そして準決勝、予選が終わったわずか30分後に行われた。河本は総合でも当然一位での予選通過だったが、二位のタイムは10:32と強力なライバルは見あたらない。フライングさえ気をつければ決勝進出は楽勝と思えた。 おそらくコーチ役として付き添っている山根のアドバイスがあったのだろう。準決勝においては明らかに力をセーブした走りを見せた。それでもタイムは10秒03と、追随を許さない圧倒的な速さを見せつけ、予選のタイムは決して偶然じゃないことを証明して見せた。 続く組の池田直人は10秒50で二位。総合でも4番目という成績で堂々の決勝進出を果たしたのだった。 決勝は午後1時半から行われる。 「1階にレストランがあるようですが一緒に如何ですか。先ほどの続きも」 森野常務に声を掛けると 「えぇ是非お願いします」 と森野は頭を下げた。 「じゃあ私。後ほどまた、失礼します」 鈴木は陸上部の仲間たちと大学側が用意した弁当を広げると云う。 私らに一礼するやメンバーらの方へ向かった。 「家内がぞっこんですわ、きょうび珍しく礼儀正しい子て」 鈴木の背中を見送りながら森野が云うと 「でしょう」女将さんが嬉しそうな声を出した。 「あ、まさか女将さん?え、ご主人も」 佐々木所長の声が背中で聞こえた。振り返るとヒロシも追いついていた。 ”割烹まえむら”はヒロシの紹介だったが、もとはと言えば佐々木が刑事時代からの馴染みの店だ。 「どうもお邪魔してます、歴史的瞬間を拝見させて頂きました」 女将さんが華やいだ声を出し、 高城社長も女将に気づくや駆け寄ってきた。 「新年会ではご厄介をかけました」 「またぁ、何ゆうてはりますの」 ※ 結局、女将さんは高城社長らの真ん中に座わらせられた。時折り華やかな笑い声が店内に響いた。 食後のあとの珈琲を楽しんでいた。 「いつもの雰囲気と違って見えましたから気づきませんでした。結構お若いんですね女将さん。。。あ、いや奥様」 向かい側のテーブルを眺めながら云うと森野は目を細めた。 「家内が聞いたら喜びますわ、私より二コ下、確か来月で54になるはずです」 「え、じゃあ失礼ですが森野常務は昭和32年生まれ?」 「えぇ10月で56になります」 「うわ、一緒です私は11月ですけど」 「ほーうこれはこれは。奇遇ですな」 「いやはや嬉しいです。最近仕事関係で同年輩の方と会う機会てめっきり少なくなりました。いやあ何となく嬉しいです」 子供に帰ったような声を出してしまった。 かろうじて近いのは山根監督だが、それでもまだ48と私より若く、反対に三浦教授の場合は63、4と年上になる。あとは逆に河本や鈴木圭子、三好菜緒子などグっと世代は若い子が多くなってしまう。 「あ、同じコト言えます私もです。同世代は仕事関係では不思議と巡り会わなくなりました」 森野も頷いた。 「ところで、奥様の店の名前はなぜ森野じゃなく”まえむら”ですの?」名刺を以前頂いた時から抱いていた疑問をぶつけてみた。 「まえむら。。。家内の旧姓ですわ。本店はまだミナミ宗右衛門町に」 いうや森野はふっと遠い目をした。 何かを思い出したのか、一瞬だが悲しい何かが光ったように見えた。 今や勝ち組以外の何者でもない地位を築きあげた森野常務だが、それなりの物語を乗り越えてきたのだろう。 「ところで、私にブランドの相談と云うのは?」 「えぇ、それそれ」 待ってましたとばかり、森野はカップを置き身を乗り出した。 「彼、河本さんにブランドのイメージキャラクターとして契約をお願いしたいです。当然ながら契約料も用意致します」 単刀直入に切り出してきた。 「ほーうなんとまぁ」 願ったり叶ったりな話とも云える。だがあまりにも急な話で黙り込んでしまった。 「寺島さん」 「あ、はい」 「余所から既にそういう話来ていませんか、美津田とかアシックツとか」 「いやいや、いくらなんでもそれはまだないでしょう。極秘で進んでいたプロジェクトなんです。けど。。。」 「けどなんです?」 「えぇ今日の記録でマスコミは一斉に騒ぎだすでしょうけど」 「でしょうね。もっと早くアクションを起こすべきでした」森野の顔が曇った。 「でもいきなりブランドイメージに彼を、なんて普通考えつかないんじゃないでしょうか?」 「でしょうか。そうであれば有難いが」 「しっかしまぁ良い話とは思います。けど大学職員という立場もあるでしょうし、何と云っても本人の気持ちを確かめてみる必要が」 高城らのテーブルから豪快な笑い声が上がった。 「あ、なんと云っても彼の所属は田嶋総業グループ、白浜冷蔵倉庫の社長なんです」 「勿論承知しております。じつはそれなりの調べは既に済んでおります」 「え、なんとまあ。しかし。。。」 よくよく考えれば9秒台を出したのは今朝のコトだ。 女将さんから噂を聞いたと云うだけで、いきなりスポンサー契約の話とは。 「しかしまぁ。素早いアレですね」 云うと森野は照れ笑いを浮かべながら 「はは、何事も情報とスピードが大事ですから」 「それにしても」 「実は。。。」 と森野常務は切り出した。 「4月だったでしょうか偶然梅田で貴方と彼をお見かけしたんです。遠目でもそりゃあしっかり目立ちますから彼。そこでピンと閃くものがありました。そういえばと、家内から新年会での一件を聞いていたのを思い出しました。その場では見失ってしまったのですが、もしやと帰宅後、家内に確かめると、あの日も中崎町にお二人でお見えになられたとか。いやはや運命を感じました。さっそく次の日から調査を始めさせていただきました」 「なんとまあ。そんなことが」 「情報だけでなくスピードとタイミングも大事ですから。一瞬の判断が会社の命運を大きく左右してしまいます。私の上司や先輩たちからの教えですが」 「まさか。。。割烹のお店も情報収集の手段として?」 森野常務の目を正面から見つめた。 だが、森野は 「いや、いくらなんでもそれは。。でも結果として。。。あとはご想像にお任せします」 私を静かに見つめ返し、にっこり笑った。 そして水の方のグラスを持ち上げ、あの遠い目を再びした。そして静かにグラスを傾け喉を鳴らした。 向かい側。女将さんや高城らの笑い声は相変わらず賑やかだった。 つづく ※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。 (-_-;)