小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

狂二4 NINE.sec その42

新聞、テレビなどマスメディアで連日のように報道されているおかげなのか、毎日のように会っている感がした河本だったが、 実際に会うのは一週間ぶりのことだった。

「え、少し肥えました?」 引き締まりスリムだった頬もふっくらしている。 「分かります?」 「そりゃあまあ」 「ようやく90キロ台に戻りました」 「え、じゃあ80台まで絞り込んでたのですか」 「と言ってもギリ、88まで。でもけっこう厳しいモンがありました」 そう言って“案山子”特製のウーロン茶をひと口飲んだ。 思わず鈴木圭子の顔が浮かぶ。最初の頃、100キロ前後まで肥えてしまい、急きょ彼女による食事コントロール作戦が開始したのだった。彼女は栄養士の資格が取れるほどの知識を身に付けたと云う。

一方の山根監督。出された料理は一応平らげたものの、やや疲れ気味な表情を見せていた。

「取材疲れですか」 「えぇまあ、それもあるけんどリレーの練習ば始めよっとが、うまくいかんけん、本人はケロっとしとるんやが」 そう言って河本の背中を叩いた。 茶を飲みかけていた河本は「うぐっ」とむせながら 「もうちょいの辛抱ですけん監督。コツもようやく掴めてきたけん」と山根の口まねで言った。 「と言うことはリレー代表のほうも決定で?」 森野が訊いた。 山根は一瞬しまった、という表情をみせ 「あ、くれぐれもまだ内緒ですけん、日本陸連から正式な発表があるまで」 森野は 「もちろん、わきまえております」と頭を下げ 「ではそろそろ、契約の件。。。説明させて頂きます」と言った。 山根は「いよいよですな、膳の上片づけてもらいますけん」と言って襖を開けた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「はあ?一千万!」 森野から一通りの説明が終わるや、河本が声を上げた。 船場商事側が提示した金額はなんと一千万。3年契約とは言え、破格値と云える。

「ご不満でしょうか」 「とんでもないっす。仕事と言えばウエアを着てポスター撮るだけ。そらあいくらなんでも多すぎます」 「いえそれだけじゃなく、スパイクシューズでモスクワ大会に臨んでいただきます」 「あ森野はん、それに関してやが」 それまでふたりの成り行きを見守っていた山根監督だったが口を開いた。

「ゼロコンマゼロゼロ秒を争う100メートル。当然スパイクとの相性も無視出来んもんがあるとです、わずかな違いでもタイムに大きく影響されるとです。シューズはどれも同じちゅう訳じゃなかと」

森野は待ってましたと言わんばかりに 「山根さん、十分承知しております。ご愛用のシューズ、アシックツとお見受けしましたが」と山根と河本を見た。 河本が頷き、山根は 「ずいぶん苦労しました。学生の場合、たいがいは既製品やが河本の場合、甲の部分に”蹴りタコ”ちゅう妙なもんがあるとです、そのうえ左右でもあきらかな違いが、おそらく利き足とそうじゃない関係やろうけん。で、足をミリ単位のレベルで計測し、こさえてもろうた特注品やけん」

森野は悠然と 「森脇さんですね」と言った。 「え、ご存じで?」 「もちろん。でご存じかもですが来月に定年を迎えられ、退職されるのです」 「え、ほんまですか」 山根は初めて聞く話だと驚いた。 「と言ってもシューズマイスターの仕事は、“シューズ工房モリワキ”として独立し続けられます」 「なら安心ですわ。。。けどお宅のチャレンジスピリッツとも?」 「すでに覚え書きを交わしております。これはその写しで。。あ、寺島さん」 「あはい」 「くれぐれも森脇氏が退職されるまでオフレコで」 「そりゃあもちろん」と私は言った。

山根は書類を広げながら 「いくら独立されるちゅうたって、いわば今までの競争相手と」 どうも腑に落ちないという顔つきで書類を眺めた。

「チャレンジスピリッツのリチャード会長。元ナイケの出身なのです」 「え、ナイケ・・・」 「森脇氏がアシックツに入社して間もなくの若かりし頃、ナイケ本社工場でシューズ作りの基本を学ばれた話はご存じでしょうか」 「そりゃあまあ。有名な話ですけん」 「で、森脇氏にシューズマイスターとしてのノウハウを一から教え込み、仕事だけでなくプライベートでもアメリカでの暮らし、一切合切すべての面倒を見たのが、リチャード会長なのです。そのリチャード会長が立ち上げたシューズブランド。フリーとなる森脇氏が断る理由など、どこにも見あたりません」

「なるほど、あのリチャード。。。」そう言いながら山根は、チャレンジスピリッツの案内パンフレットを開いた。

「監督はリチャードをご存じですの?」河本が訊いた。 「そりゃあまあ一応」山根が応えると、森野が

「河本さんシューズマイスターという言葉、初めて提唱し、世界に広めたいわばシューズの”匠”なのです。特に陸上の世界では知らない者は居ないほどの」と続けた。 山根は 「しかしまあ。。。名誉も財もナイケで充分得たはず。なぜにまた新会社なぞ」と首をかしげた。 「山根監督」 「はい」 「立ち上げた理由。それこそ、このブランドが意味するところなんです」

「あ、なるほど。チャレンジ精神・・・・」 河本と山根、声をあげたのはほぼ同時だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「以上が私どもからの説明です」

船場商事、森野常務が提示した条件は第三者の私が見ても、申し分のない契約と思えた。 また契約の期間中と云う制約があるものの、シューズの無償提供という文言が加えられていた。陸上部だけでなく体育会全体にもおよび、学校やアマチュア選手たちにとって、なんともまあ有難い話だった。

河本はもちろん、山根も承諾。。。 的な空気が流れた。

契約書に目を落としていた河本だったが、ようやく顔を上げた。

「森野常務さん」 「はい」 「やはり俺、、、いや自分としてはお断りします」

私を含め3人。一斉に え? と彼を見た。

「なぜまた・・・ご不満な点があれば言って下さい」 「あいや、そうじゃなくむしろ良すぎるんです。だからこそ不安なんです。」

河本の言葉に、しばらく考え込んでいた森野だったが

「河本さん」 「はぃ」 「逆です」 「え、何が・・・」 「良い話があれば、次はその逆が待ってる。人生なんてそんなモノ。そう思ってられるんじゃないですか」

「えぇまぁ」 「逆です。私なりに貴方のことを調べさせて頂きました。今まで途方もないご苦労や経験、身の危険を体験されて来たじゃないですか」

「えぇまあ。。。」

「ですから今回の話。それまでの逆なんです。いわばご褒美みたいな。そういう風に考え直して頂けませんでしょうか」

(あ、その言葉に賛成)

私は心の中で呟いていた。

つづく

※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。

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