小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの花が散ったあとに 5

大阪市の地図で云えば、中心部(本町あたり)から南西の方角に車を走らせ、たとえゆっくりな速度だとしても20分とかからない。さらに5分も走れば大阪湾に突き当たる。
篠原芳美さんのマンションはそういう場所にあった。リビング側の窓からは、建設中の大きくて長い橋が遠くに見えた。
眼下の運河は、川幅100メートルほどで、色こそ黒色の鈍い光を放っていたが、窓を開ければここ5階の高さまで大阪湾から混じるであろう潮の薫りが漂い、夜明けから夕暮れまでのあいだ、作業船や運搬船らが行き交い、心地よいエンジン音を響かせた。
また市営の渡し船の乗り場がすぐ下にあり、朝や夕方の登下校の時間帯ともなれば、児童や女生徒たちのはしゃぐ声がよく弾む。
潮の薫り、ポンポン船の音。自転車のベルの音。
この周辺の何もかもが胸に染みた。太陽が沈む頃の夕景は川面を黄金色に染め、
濃褐色のシルエットとなって浮かぶ船や橋桁との対比はまさに芸術的な感動があった。
それまで縁もゆかりもまるでなかったこの街の何もかもが、すっかり好きになり始めていた。
そして風景だけでなく・・・・

「あの橋が出来ると神戸まで”あ”っちゅうまに行けるんやて」
篠原さんは、早く完成が待ち遠しい。そんな表情で煙草を銜えた。
ベランダの手すりにふたりとも同じような姿勢で手を付き夜景を楽しんでいた。
「2、3年ぐらいですか」遠目でかなり規模の大きい難工事に見えた。
「それが。。。全然」
彼女は一瞬、顔を曇らせながら煙を吐き「あと10年、へたしたら15年はかかるんやて、あの先の阪神高速湾岸線もまだまだ工事中やし」
「え、そんなに」
「けどこんな大正区と神戸が一直線につながるやなんてほんま信じられへんわ」
彼女は夢見る少女のような眼差しで工事中の橋を見つめた。あと15年・・・・実感としてつかみきれなく、それはとてつもない歳月に思えた。
いずれにせよ神戸はまだまだ遠い。それは確かなことなんだろう。
「風、出てきたけど寒ぅない?」
「いえ大丈夫です」
「そう。。うちに遠慮せんと何でも言いや」
「遠慮など。。。。けどまぁあの日、どこの馬の骨かわからないこの僕を、なぜにまた。不安じゃなかったですか」
それまで抱き続けていた疑問を思い切って訊いてみた。するとまじまじと僕の眼を覗きこみ
「はは、この眼や」と笑った。
「え」
「弟と同じ眼や、めちゃ優しい眼してる」そう云うと、彼女は遠くを見つめた。
「弟さん?」
「あぁ」
「いまお幾つぐらいなのですか」
「そうやな、ウチとひと回り離れとるからもう30かな。元気に生きとったらの話やけど」
「え?」
「あぁ、いろいろ事情があって引き離されてもうた、いま頃どこで、どうしてるのやら」
彼女はそう云って煙草を深く吸い込んだ。そしてこちら側に煙が流れないよう気遣いながら長々と吐き出した。
「・・・・・・」
まったくどう答えて良いかも分からず、ただ黙って彼女の横顔を見つめていた。それまでの快活さは消え、どこか憂いを湛えていた。
なにかぞくっとするほどの美しい横顔だと思った。
「風、強ぅなってきた、そろそろ入ろか」と云うや、備え付けの小さなポリバケツに煙草を放り投げた。火のついたそれは見事に放物線を描き、ジュっと音を立てた。                        
                              ※

それにしても、篠原さんはよく働く人だった。
いつ寝る時間があるのだろうと他人ごとながら心配した。マンションから車で5分の場所に勤める産業廃棄物回収の会社があるとのことだった。
彼女の持ち場はミナミの盛り場を中心に市内の南部地区一帯。
出会った日のように夜明け前に、マンションに戻れる日もあるが、焼却場に持ち込む日など、帰宅は午前10時過ぎ。焼却の順番待ちで混みあう日など昼前まで帰れないそうだ。
会社として基本的に日曜祝日も関係なく、365日の営業。従業員同士、交替で週に一日だけの休みが許されてるらしい。

彼女が唯一休めるその金曜日を迎えようとしていた。え?また悲鳴・・・というか、うめき声のようなもので目覚めた。
助けられ、すっかりお世話になり、早くも三日目。夜が明け、そして時計の針が10時を回ればクリーニング店のシャッターが開く。
お待ちかねのジャンニのジャケットとスラックスが引き渡され、三日間を過ごした彼女のこの部屋ともいよいよのお別れ・・・。
「え、ジャンニビアンコと会ったてか、凄いやん」紳士モノで名を馳せたジャンニだが、篠原さんもよく知っていた。自慢するつもりなどは、毛頭なかった。彼女がクリーニングに出してくれたジャケット。話の成り行きでついプロジェクトの思い出話を語ったに過ぎない。
「と云っても、先輩たちの後ろでウロウロしてただけなんです」
「何云ってるん、滅多に出来へん経験やないの。そのプロジェクトに選ばれただけでも自信を持たな」
「はぁ。。。」

そう云って何度も励ましてくれた彼女。またもの呻き声。彼女が寝るベッドの方から聞こえた気がした。耳を澄ませてみたが、今度も聞こえなかった。気のせいか、と寝返りを打った。                                                                       


つづく

※ 言うまでもありませんが、当記事は フィクションです万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。あと、ついでに言わせてもらうならば、これは「ミモザの咲く頃に」の続編でもあります。(-_-;)