小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの花が散ったあとに 10

「花見なぁ。もう何年もしてないわ」
悲しげにつぶやいた篠原さんのひと言が、いつまでも忘れられずにいた。5年前に離婚。何があったのかは訊けなかったが、少なくとも5年のあいだは花見をする余裕などなかったろう。「日当がケタ違いなの」が今の仕事を選んだ理由らしい。
だが雨の日も風の日も関係なく、深夜のゴミ回収。。。さぞ相当な苦労があったろう。ふと深夜に目覚め、働く彼女のことを思いやるたび胸が締め付けられる思いだった。
「夜、眠れる人にゃあ、夜ねむれない人の切なさ、やりきれなさ。たぶん分からんやろなぁ」が彼女の口ぐせでもあった。

彼女のマンションには、桜の樹はなかったけれどクスノキの大木が連なり、緑の並木道は壮観で実に見事だった。常緑樹なのだが、4月から5月にかけ、役目を終えた葉は猛烈な勢いで落葉。地面を覆い尽くす。そして気づけばすべての樹はすっかり若葉に生まれ変わっていたのだった。
当時の自分にも、猛烈な勢いで何かをそぎ落とし、新しい何かを身に纏うという(生まれ変わり)の時期だったのかも知れない。ただそれは歳老いて初めて気づくことであって、当時はただ無我夢中、徒手空拳。いたづらに宙をかき、ただもがき続けるだけの日々だった。恋は盲目というけれど、家族や会社のコトなどすっかり忘れ、目の前の篠原さんがすべてだったし、この僕が篠原さんのすべてでもあった。
お互いに惹きつけられ求め合い、ふたりの愛は永遠かと思われた。そして打算とか計算ずくじゃない出逢いは、幸運以外のなにものでもなかったと、今でも思う。
生活のリズムは、彼女に合わせいつしか夜型になっていた。夜更け、仕事に出かける彼女を送り出したあと、本棚に向かう楽しみも発見していた。
それまでは、いったいどこがどう面白いのか分からない。という大の本嫌いだった。僕とは正反対で、大の読書好き。壁のほとんどを覆い尽くした本棚は壮観だった。そして最初に手に取ったのが松本清張
今思えばそれも幸運のひとつだったかも知れない。比較的読みやすい文章と、巧みな構成。
ヒロインや主人公たちと心情的に同化してしまい、この先いったいどうなるのか。とか、事件の影に隠された本質は何か。社会的な問題はいったいどこか。などなど単にストーリーの展開を追うだけでなく、あれこれ推理し、考える楽しさ面白さ。
それまで気づきもしなかった、知の好奇心が満たされることの喜び。
(読書てこんなに楽しいものだったのか)と、すっかり本好きに変身したのだった。
本棚には小説以外にも、さまざまなジャンルの専門書があり、例えば心理学や法律、建築、科学、芸術まで。実に多岐に渡っていた。だがとりわけ多く眼に付いたのが演劇の専門書だった。
かなり読み込んだ跡が残り、彼女の一面をかいま見た思いだった。
その事を訊ねても、「もう遠い夢のはなしや」そう笑って誤魔化されるだけだった。

連休も終わりが近づいたある日の事だった。マンションの一階にあるコンビニストア。オーナー夫婦と、すっかり顔なじみになるほど毎日のように立ち寄っていたが、それまで関心もなく見向きもしなかった新聞のコーナー。
なんと(繊維ジャーナル)のロゴが目に入った。
急に懐かしさがこみ上げ、手に取ってみるとまさしくあの、専門紙だった。
レジに差しだし「専門紙も取り扱ってられるんですね」と訊くと
「はぃ、去年だったかな、最初学生さんに頼まれたんです」
「え、学生さんが」
「おそらくファッションの専門校か何かやろね、で数部、試しに取り寄せ置きだしたところ、毎週のように完売ですわ。ファッションに皆関心があるんやろね」
「なんとまぁ。で、その学生さんは今でも?」

「いえそれが」オーナーは満面の笑顔になり
「春から無事に商社会社に就職も決まって。東京へ」
「商社?」
「えぇ、たしか角紅ですわ。大手に決まって、そりゃあもう嬉しそうでした」

「!!・・・・・・・・・・」ふいに、ガツンと何かで頭をぶん殴られたような気がした。                    

             つづく

※ 言うまでもありませんが、当記事は フィクションです万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ごと、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。あと、ついでに言わせてもらうならば、これは「ミモザの咲く頃に」シリーズの続きでもあります。(-_-;)