小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

そして、池上線24

そのあとしばらくは写真談義に花が咲いていたが、急に社長は立ち上がった。

内線電話を呼び出すや

「あ坂井君、さっきのは取り消し。佐伯社長んとこ優先。。。

うんそう、風の系譜社さん。いい?必ずだよ」

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「え、松浦社長。今のは、もしかして。。。」

8割ほどの期待を込め、おそるおそる訊いてみた・・・・

「ええ、佐伯社長。ご希望の納期なんとか、しましょう」

「本当ですか」

「あぁ」

いかにも職人あがり、頑固一徹を絵に描いたような松浦社長。

この社長の言葉に二言はないだろう。

「あ、ありがとうございます。このたびの無理な依頼。本当に助かります」

背中に電流が走ったかのごとく、思わず起ち上がった。

そして深々と、長いあいだ、お辞儀を続けたのだった。

従業員10名足らずの松浦印刷所。取り引きは初めてだった。

出版3作目となる[有田焼、その魅力と歴史]

「松浦じゃなければ出稿はお断りします」

執筆者、田中慎一芸術大学教授による強い希望だったのだが、

葛飾区下町。バラック小屋風の社屋。

最初みた時など軽いめまいを感じたものだ。

(田中教授の言う印刷所、こことは別ではないか)

だが、美術全集を得意とする印刷所。

その印刷物をみた時、考えは一変した。

細部や、中間色に至るすべての再現性が抜群。

聞けば大手印刷所の下請けがほとんどだと言う。

逆にいえば、大手印刷の請負だけで、印刷工程表はぎっしり。

零細出版社の小さな部数仕事など、入り込む余地はなかったのだった。

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まさかの奇跡をもたらした、代々木公園。

代々木その3

学生時代、寮のある田町から、高田馬場にある大学へと通う山手線。

その車窓から、ぼんやり眺めるだけの憧れの風景に過ぎなかった。

高山厳が唄う池上線てニセモノですか」

「はぁ!?何それ」

レコード屋の翌日、勇気を出し高野さんに話しかけたのだった。

今思えば、なんと間抜けな質問。

でもそれがきっかけにもなり、すっかり親しい仲となったのだった。

ある日、ふたりで帰りの山手線。明治神宮の森を眺めながら

「この景色好きです。都会とは思えない緑」

何気なく、つぶやいた時だった。

「横の代々木公園、これがまた良いんだわ」

高野さんは微笑みながら言った。

「へーまだ行ったことないんです」

「こんど行こうか」

「え」

高野さんは、眩しそうに目を細め、車窓を眺めていた。

独り言のような喋り方だった。

だから思わず

「良いんですか」

確かめるように訊いた。

高野さんは車窓を眺めたまま、少しの沈黙があった。

「弁当でも作ろうか」

小鳥のさえずりに聴こえた気がした。

つづく

今更ながら、言うまでもありませんが、当シリーズはフィクションです。 従いまして、地名、名前 等はすべて架空のものです。万が一 同姓同名同社の方が居られましても、なんら関わりは御座いません。