そのあとしばらくは写真談義に花が咲いていたが、急に社長は立ち上がった。
内線電話を呼び出すや
「あ坂井君、さっきのは取り消し。佐伯社長んとこ優先。。。
うんそう、風の系譜社さん。いい?必ずだよ」
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「え、松浦社長。今のは、もしかして。。。」
8割ほどの期待を込め、おそるおそる訊いてみた・・・・
「ええ、佐伯社長。ご希望の納期なんとか、しましょう」
「本当ですか」
「あぁ」
いかにも職人あがり、頑固一徹を絵に描いたような松浦社長。
この社長の言葉に二言はないだろう。
「あ、ありがとうございます。このたびの無理な依頼。本当に助かります」
背中に電流が走ったかのごとく、思わず起ち上がった。
そして深々と、長いあいだ、お辞儀を続けたのだった。
従業員10名足らずの松浦印刷所。取り引きは初めてだった。
出版3作目となる[有田焼、その魅力と歴史]
「松浦じゃなければ出稿はお断りします」
執筆者、田中慎一芸術大学教授による強い希望だったのだが、
最初みた時など軽いめまいを感じたものだ。
(田中教授の言う印刷所、こことは別ではないか)
だが、美術全集を得意とする印刷所。
その印刷物をみた時、考えは一変した。
細部や、中間色に至るすべての再現性が抜群。
聞けば大手印刷所の下請けがほとんどだと言う。
逆にいえば、大手印刷の請負だけで、印刷工程表はぎっしり。
零細出版社の小さな部数仕事など、入り込む余地はなかったのだった。
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まさかの奇跡をもたらした、代々木公園。
学生時代、寮のある田町から、高田馬場にある大学へと通う山手線。
その車窓から、ぼんやり眺めるだけの憧れの風景に過ぎなかった。
「高山厳が唄う池上線てニセモノですか」
「はぁ!?何それ」
レコード屋の翌日、勇気を出し高野さんに話しかけたのだった。
今思えば、なんと間抜けな質問。
でもそれがきっかけにもなり、すっかり親しい仲となったのだった。
ある日、ふたりで帰りの山手線。明治神宮の森を眺めながら
「この景色好きです。都会とは思えない緑」
何気なく、つぶやいた時だった。
「横の代々木公園、これがまた良いんだわ」
高野さんは微笑みながら言った。
「へーまだ行ったことないんです」
「こんど行こうか」
「え」
高野さんは、眩しそうに目を細め、車窓を眺めていた。
独り言のような喋り方だった。
だから思わず
「良いんですか」
確かめるように訊いた。
高野さんは車窓を眺めたまま、少しの沈黙があった。
「弁当でも作ろうか」
小鳥のさえずりに聴こえた気がした。
つづく
今更ながら、言うまでもありませんが、当シリーズはフィクションです。 従いまして、地名、名前 等はすべて架空のものです。万が一 同姓同名同社の方が居られましても、なんら関わりは御座いません。