小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

そして、池上線52

得体の知れない、何か胸を揺さぶるものが沸々と込み上げてくるのだった。

絶景の、そして静かに岩に砕ける日本海の波、風、夕日。。。

それら全体が織りなす男と女。奇跡の運命の瞬間。。。

いや、始まりだったのかも知れない。

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4月中旬、日本海を眼下に見下ろす丹後半島の小高い山。

海からの少し強く吹いていた風はいつの間にか止んでいた。

なぜか二人とも無口に黙り込んで、しばらく真っ赤に沈みゆく太陽を見ていた。

 

だが馬渕は、静かに鼻歌を歌いだした。一瞬、ファドかと思いきや、

むかし懐かしい青春ドラマの曲だった。

ところどころ音程が外れているが、間違いない。

 

青い三角定規。。。ですわね、それ」

「あ、わかりますぅ?」

「もちろん。。。君は何を今、みーつめてるの。。。。」

おそらく40年ぶりだろうけど、すんなりと歌詞が出てくるのが可笑しい。

 

青い三角定規さん『太陽がくれた季節』の歌詞

 

「貴女そのものじゃないですか。。。濡れた瞳で。。。。て、つい」

馬渕の照れたような声がかすれた。

「え」

眼を合わせると、馬渕の方こそ眼が濡れているように見えた。

ま、まさか、この私を思っての涙?

そう思うとまたも何かが胸を揺さぶる。

「哀しみや苦労を乗り越えたこそ、今があるんでしょうな」

 

あ、馬渕のこの、低音の。。。

声に女は弱いと云うが、確かにその通りだと思う。

それらは松浦や、佐伯勇次にも共通するものだった。

 

「苦労。。。そんなの誰しもありますわ。苦労知らずな方なんて多分この世に居ないんじゃないかしら」

「でも貴女のは桁が違う」

「・・・・・・・まぁそうと言われればそうかもね。でも振り返るなら、結構楽しかった人生かと」

「強がりを」

「強がってなんかいません」

云ったあと、なぜかムキになっている自分が可笑しい。

「本当ですわ、東京を離れたあとこれがまぁ、最高でした。それなりの苦労はありましたけど」

 

馬渕の表情が一変した。

「それそれ。是非お聞きしたいと思ってました」

「はぁ」

馬渕は手帳を取り出し、いつしか業務言葉づかいになっている。

 

それがまた寂しい。

「地方を転々とされましたね、茨城に栃木。ここらはまだ関東圏としても、やがては北陸、石川に福井。。。なぜまた」

「窯元の修行ですわ」

「窯元?」

「えぇ」

「茨城や栃木にもありましたっけ?」

「ご存知ありません?」

「えぇ、そっち方面はまったく」

「茨城は笠間焼を皮切りに、栃木は益子焼、石川は九谷、あ、九谷焼はご存知でしょう?」

「えぇ九谷は」

「福井は、越前焼、最後にふるさと丹後。。。。」

「なぜまたそんなに」

「焼きもの。と一口に云っても、それぞれに特徴がありますの。。。

そのときカサっと音がし、慌てて振り返る。

 

背後の空はすっかり濃紺から黒、夜の色へと変わっていた。

 

上弦の月が出ていた。

 

「あ、いけない。暗くならないうち、貴女を送り届けなきゃ」

「え、えぇ。。」と返事したものの、

もう少し馬渕と過ごしてみたい気分だった。

上弦の月がきれい」

「ほー、あの形が上弦て云うんですか」

「右半分が光っているのが上弦、左半分なら下弦。。。」

「詳しいですな」

「畑仕事も、やってますの。月齢が頼みの綱ですの、種まきのタイミングとか収穫の時期とか」

「え、畑。。。」

「と、云っても裏庭。。食べる分だけ少しばかり。。」

 

「うわぁいいなあ。僕も引越して来ちゃおうかな丹後半島

 

そう云って馬渕は、陽も沈みすっかり暗くなった、丹後の海を眺めた。

 

「今なんと?」

「ここへ引っ越し」

 

「え」

 

それから、しばらく無言で、お互いを見つめ合い、

話す言葉を探した。

 

だが

「あはは。じょ、冗談ですよ」と馬渕は眼を逸らした。

 

 

つづく

 

 

今更ながら、言うまでもありませんが、当シリーズはフィクションです。 従いまして、地名、名前 等はすべて架空のものです。万が一 同姓同名同社の方が居られましても、なんら関わりは御座いません。※なお当シリーズで使用の画像は 写真素材 足成様より頂いています。