小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

そして、池上線53

「今なんと?」

「ここへ引っ越し」

「え」

それから、しばらく無言で、お互いを見つめ合い、

話す言葉を探した。

だが

「あはは。じょ、冗談ですよ」と馬渕は眼を逸らした。

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「冗談にも程がありますわッ」

半分は本気に腹立て、もう半分は、馬渕を懲らしめてやれ、そういうちょっとした

いたずら心が芽生えた。

後ろ向きになり肩を震わせる真似をし、馬渕の反応を待った。

案の定、馬渕は

「うわぁ、吉岡さん。。」と声をあげた。

 

ふと馬渕の両の手で肩を押さえつけられ、やがて力強く背後から抱きすくめられる。。。

そんな確信にも似た予感が突き抜けた。

 

ふたりを邪魔する者など誰も居ない。月明かり。樹々や雑草のざわめきと香り。

穏やかな波の音。沖では早くも漁火がぽつりぽつり。

完全に映画の世界だと思った。男と女の。。

 

だが、静寂の空気が流れたまま馬渕は動こうとはしない。

やがて馬渕の苦しそうな息遣いが聞こえた。

 

え?と振り返ると、なんと馬渕も後ろ向きで肩を震わせている。

さらに右手で目の辺りを拭う仕草を見せているではないか。

 

んなあ。。。。

(ち、違うんです)馬渕の逞しく広い、だが寂しそうな背中を見つめていると、

突然、腕を巻きつけ、思いきりしがみついてみたい衝動に駆られた。

 

え?なにこれ・・・

 

「ま、馬渕さ。。。」

まさにその瞬間だった、携帯のマナーモードが震える。

はッと我に返る。気づくと海からの風が吹いて居た。

潮含みの風にぴしゃりと頰を叩かれた気がした。

携帯のディスプレイは熊本に向かった雪乃だった。

呼吸を整え、「ゆ、雪ちゃん。そ、そっちどう?」と、ようやく声を絞り上げたのだった。。。

 

ヘッドライトが、バス停を浮かび上がらせた。

上京の朝、泣きじゃくった弟との別れを思い出し、その弟の横で、ずっと無言を貫き通した父親の顔がふいに現れた。

たしか還暦祝いの翌年だったから、今の私、それになんと云っても馬渕と同じ歳ということになる。

父親がどうやら浮気をしているらしい。高校3年の夏、母から打ち明けられ、そして家出も同然に東京への進学を決めたのだった。

絶対に許せなかった。還暦を越えた父親が汚らわしく、やがて怒りの矛先は父だけでなく、平然とうそぶく母親にも。

 

けれど。。。父さん、母さん。。。。御免なさい。

今なら貴方達の苦しみ、悲しみ、その他すべて、あれやこれや。。

 

「あの角でしたっけ、曲がるとこ」

それまで無言でステアリングを握って居た馬渕が振り向いた。

「え、えぇ。すみません」

 

「いやぁ、しかしまぁ。おかげさまで楽しい出張でした」

ヘッドライトが 丹後焼窯元『紫織』の看板を照らし出した。

タイヤが、カタンと路肩の側溝フタを踏み鳴らし、停まった。

シュンシュンとエンジン音は鳴ったままでいる。

 

「すみませんでした、忘れてください」

「はい?」

「先ほどの失礼、なんとお詫びして良いやら。。」

 

山から降りる途中だった。木の根につまづき、転びそうになった時、がしッと馬渕に抱きとめられたのだった。

 

はッと見つめあうふたり、やがて静かに馬渕に引き寄せられ、抱きしめられたのだった。

おそらく時間にして、わずか数秒。。。

 

けれど、たったそれだけのこと。

ドラマチックな展開どころか、きょうび、小学生の絵日記にもならないだろう。

だが、ひとつ言えるのは、心と心、ふたりは通じ合ったといえる。

 

「いえ。。。全然。忘れるも何も、全然。。」

シュンシュン。。。

ふとエンジン音が気になった。

ご近所にうるさくないかしら。。。

 

「佐伯様に会わせる顔ないなぁ」

「はい?」

「どうやら貴女を好きになってしまいました」

「え」

と絶句、またも沈黙が流れる。

シュンシュン・・・・

 

ようやく馬渕は口を開いた。だが

「明日、予定を早めて昼前にします。新幹線。。。」

と呟くように云った。

とっさ的に身体が反応した。

馬渕の腕を引き寄せ、

「お願い、帰らないで。。。。」

と言った。

 

どこか遠くで聞こえたようにも思えたが 紛れもなく私の声だった。

 

 

つづく

 

 

今更ながら、言うまでもありませんが、当シリーズはフィクションです。 従いまして、地名、名前 等はすべて架空のものです。万が一 同姓同名同社の方が居られましても、なんら関わりは御座いません。※なお当シリーズで使用の画像は 写真素材 足成様より頂いています。