小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

そして、池上線58

馬渕はテーブルに両手をつき、深々と頭を下げた。 「す、すみません」 「え?」 「許してください」 「はぃ?って何を・・・・」 「私、馬渕憲一。吉岡さんに恋しちゃいました」  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まったくの想定外が降りかかった時の反応て、ふた通りあると思う。

ひとつ目は、(即座に、そんな馬鹿な)と反発する。

ふたつ目は、(え?一体なにが起きた?)と、しばし呆然と時を過ごす。。。

 

馬渕の、予想を遥かに超えた言葉、今回は後者の方だった。

と言うより、言葉の意味を考える思考力が停滞、最初何を言ってるのかさえ、理解に苦しんだのだった。

「はあ?・・・・・恋?誰が?いつ?」

「す、すみません。この私。。。。吉岡さんに。。。。恋を。。丹後半島で」

 

ん?この声。。。。低音で、ややかすれ気味の声、何やら聴き覚えがあるぞ。。。

テーブルに平身低頭し続ける馬渕、ふっと顔を上げた表情。。

あッ 愛川欽也そっくりだと、発見したのだった。

すると、なぜか急に懐かしさがこみ上げ、愛しさが胸を突いた。

 

おお懐かしや、愛川欽也。。。他界のニュースは寂しく、哀しいものだった。

 

あ、いやいやそんな感傷に浸ってる場合じゃない。

この馬渕が、30年も心の中に棲んでいたあの高野さんに恋?

 

いやいや、あの高野さんではなく、吉岡紫織。。。しかも陶芸家だと言う。

そんなぁ。

あっ。別人じゃないか。もしかして。

高野しおり と 吉岡紫織と言う女性は別人・・・

ならば良いんでないかぇ。

別に良いのではないか、何の問題がある。

 

ん? いやいや馬渕は探偵。

高野さんの消息を求め、はるか丹後半島まで出張し、本日帰京。だから、

吉岡さんは高野さんの旧姓。

すなわち、同一人物であり。。。

 

「え。んなあ!?」

それに。。。。。

「馬渕さん」

「は、はい」

「貴方にはご家庭がおありでは?」

すると

「娘はおりますが、女房。。。5年前に他界いたしました」

 

え!?

 

「いつものアメリカン・・・・じゃなくミルクティー。。。置きますね」

「あどうも」

マスターが置いたミルクティー。振える手で持ち上げ一口すする。

夕食前の紅茶。たまには良しだな。ダージリン葉の薫りが程良く利いている。

 

せっかくの日曜。雨の夕方。喫茶店で向き合うは男。

なにやってんだ。。。俺。

そもそもは、西崎とも代の依頼で、初恋探し。

この馬渕探偵に依頼。

馬渕探偵と、西崎をつなぐ者有り。

 

その名は・・・・・・・・・・・

 

ふと森島碧の顔が浮かび上がる。

これも恋と言えるのだろうか。

数日前、酔った西崎を送り届けるため、池上線に乗り込んだ夜が

鮮やかによみがえる。

たったの数秒間ではあったが、お互いを無言で見つめ合ったのだ。

 

心と心が通じ合ったと言える。密やかな恋。。。

 

だが。。。。

当方は家庭持ち。

 

馬渕は独り身。

 

完全に馬渕の勝ちだと思った。

明らかに負け、こちらの完敗。。。。

馬渕を責めるなんてコトは出来ないじゃないか。。

 

いやいやそう言う問題か?これ。

 

「あ、あのね馬渕さん」

「は、はいッ佐伯さま」

 

あっ この男なら、高野さんを幸せにしてくれる!

馬渕のどこかひょうきんで、善良そうな表情を見て確信したのだった。

 

あ、いやいや。そんなことより、何より・・・・

「高野さん。。。。いや吉岡さん、本当にお元気なんですね」

「えぇそりゃあもう」

言葉でなく、自信に満ちた馬渕の表情が物語っている。

 

何よりこの馬渕が恋するほどなのだから、女性としての魅力も健在なのだろう。

ひとまず、そもそもの目的を馬渕は立派に果たしてくれたと言えよう。

「でも丹後半島で、お独り寂しく。。。」

「あ、その点に関しまして、ご心配なく。書類にまとめ、明日事務所で詳しく報告いたしますが。。。」

 

馬渕は、なぜか急に業務口調になった。そして

高野教授夫人の座を捨て、キャバクラ時代、葛飾区の印刷所、そして陶芸家への道。

かいつまんで報告したのだった。

 

半分は、うわの空で聞いていたが

「馬渕さん」

そう呼びかけた声は、どこか緊張気味で、かすれ声だった。

「何でしょう佐伯さま」

 

で、肝心の吉岡さん、彼女の気持ちはどうなんです?

 

この言葉を投げるべきかどうか、逡巡し続けたのだった。

店内のBGM 枯葉がやたらと心に響いていた。

 

たしか今は4月の筈なのに。そんなことを考えていた。

 

 

つづく

 

 

今更ながら、言うまでもありませんが、当シリーズはフィクションです。 従いまして、地名、名前 等はすべて架空のものです。万が一 同姓同名同社の方が居られましても、なんら関わりは御座いません。※なお当シリーズで使用の画像は 写真素材 足成様より頂いています。