小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

そして、池上線69

「じつはこちら佐伯社長さまのご依頼で、とある方が昔、住んでられた居場所を確認しておりました」「え、この私の」

「いえ、高野・・・いえ吉岡紫織さまです」

「は、はい!?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

馬渕の報告によれば、目の前の松浦正吾は吉岡さんと同い年。まだ60ちょっとの筈だが、10歳は老けて見えた。下町の小さな印刷所。だが写真美術に関しては日本でもトップクラスの再現性を誇り、精密美術印刷に関しては大手の新日本凸版さえ凌ぎ、頭を下げ仕事の依頼に来ると言う。おそらく神経を使う職人的印刷技術の世界・・すなわち機械だけに頼ることなく、日々紙とインクと原稿との闘い。全神経をすり減らして来たのだろう。社長族によくありがちな贅肉など一切なく、躰は引き締まり、頰はコケ頭は白髪。そして無数のシワに刻まれた顔が彼の人生を物語っている。油と溶剤まみれの作業服。だが佇まいには凛としたものがあり、どこか戦国武将を思い起こさせた。

その松浦の声が素っ頓狂に裏返り「ひ今なんと?」

「えぇですから吉岡紫織さまの・・・・」

馬渕の言葉を途中で遮り「まさか。。あの紫織?」

「えぇ吉岡紫織さまです」

すると松浦は深いため息と同時に「嗚呼、紫織」と呟いた。が一瞬考え込み「でなぜ佐伯さまが?」さっと、私の方を振り返った。

「えぇ。まさかの奇遇なんです。高野。。いや吉岡紫織さんは私の初恋の相手でもありました。それで今回、馬渕さんにあれこれ調べて頂いているうち、松浦社長さまとの件が彼女の口から」

と、馬渕による調査依頼の成り行き、そして彼女の現在と顛末。それらを説明したのだった。

「まさかそんな。。。」

まったく信じられない、こんな奇遇。松浦は絶句しながら私を見つめた。しばらく眼を閉じ、何やら考え込んでいたが

「で、ほんとうに今、お元気なんですね紫織?」と馬渕の方を見た。

「そりゃあもう。元気も何も。丹後焼窯元”紫織”のご当主として忙しく。。あ、どうぞこれをご覧に」馬渕はそう言いながら京丹後市産業振興会館のパンフレットを広げて見せた。彼女の作品と丹後焼“紫織”の紹介が大きく、詳しく取り上げてある。

どうも。と受け取った松浦は、眼を輝かせ、時間をかけ何度も何度もパンフレットを端から端まで読み返した。そして読み終えるやなぜか俯いた。下を向いたまま無言で馬渕に戻そうとした。

「あ、どうぞこれ。これは貴方に差し上げる分ですから」

すると「あ、ありがとうございます」さっと上げたその顔。真っ赤に眼を腫らし、涙を溜めていたのが俯いていた理由だった。

やがて絞り出すように

ずっと・・・・ずっと紫織のことが気がかりだったです。この30数年。と声を出し、言葉を続けた。

「ある朝突然でした。専門学校で陶芸を本格的に習いたい、ですから会社は辞めたいと」

「え。陶芸の専門学校?」思わず馬渕と顔を合わせた。馬渕も初耳のようだった。

「えぇ、レクレーションで偶然ハマった陶芸。最初冗談かと思いました。けど真剣で。まぁ彼女はそういう所あるから、何事も直ぐにハマり込む性格」

「なるほど、熱しやすく冷めにくい」

「でその後はプツリと連絡も途絶え。。。ずっと気がかりだったです、会社に誘っておきながら、最後まで面倒を見ないまま放り出したようで。ぜったい彼女は、私を恨んでるに違いない、それより何より元気でいるだろうかと。。。で、今。窯元の当主とは、いやはや。丹後焼。。とは。。けれどやっぱ専門学校は私から逃げる口実で。。。」

「決してッ」馬渕は突然声を張り上げた。

「え?」

「決して恨んでなんか居ませんよ。貴方に対しては感謝の気持ちで一杯だと。今があるのも貴方との青春、そして離婚後キャバクラでの再会。それら全てがあったればこそだと。葛飾の印刷所は今もフル稼働中、そう申し上げた所、我がごとの様に喜んでられました。そして私の前で、彼女は声を上げ泣いたのです」

「・・・・・・・・・・」

松浦は黙ったまま聞いて居たが、

「ようやく胸のつかえが降りました、ありがとう御座います」深々と頭を下げた。

「で、社長。。。誠に申し上げ難いんですが」

馬渕は恐る恐る切り出した。

「はい?」

「このたび私、吉岡さまと・・・・・」

「馬渕さんとやら」

「は、はい」

「今度こそ、今度こそ本当に彼女を幸せにして下さいますね?」

松浦は、私とまったく同じ言葉を吐いたのだった。

ガチャン、ガチャガチャ。ガチャン、ガチャガチャ。。。。

印刷機の音は相変わらず鳴っていた。

 

 

                      つづく

今更ながら、言うまでもありませんが、当シリーズはフィクションです。 従いまして、地名、名前 等はすべて架空のものです。万が一 同姓同名同社の方が居られましても、なんら関わりは御座いません。