小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

ミモザの咲く頃に その6

至福の2時間はあっと言う間だった。
耳の奥からは鍵盤の音がまだ鳴り響いている気がした。
応接室に上着と鞄を取るため廊下に出た時だった。
「あのうもしよかったら夕食ご一緒しません?」上目づかいで美央が訊いた。
思いもよらない言葉に初めて腹が減っているのに気づいた。何かの煮物だろうか、空腹に染み渡る匂いが流れてきた。だが、
母親には遅くなるが帰ってから晩めし食べるからと言ってあった。それより何よりいきなり彼女らと一緒の夕食は気恥ずかしいものがあった。





「すみません、家で用意して待ってるものですから」
「え、彼女?まさか奥様とか」
「そんなぁ、おふくろですよ」
言ったあと、しまったマザコン男て誤解されないだろうか。気になったが、「あ、そうなんや」
ひと安心したような表情を向けてくれた。
(家で待ってるのは母親。という返事に安心してくれたのか?いやいやそんなことあるまい・・・)
祖母も廊下に出てきて、しきりに夕食を勧めてくれたが、丁重に辞退し、家を後にした。
レッスン料を常務に確認していなかったけど、夕食までいちいちご馳走すれば家計も大変だろうに。だが石坂家の好意は嬉しかった。

外はすっかり暗くなっていた。夏を思わせる昼間の熱気も消え、
風が興奮の余韻でほてった頬を撫でた。
夏への踊り場、6月の夜は春の名残がまだある。
耳奥に鍵盤の響きが残っていた。
いつもの駅だと一旦会社方向に戻ることになる。会社の事は忘れて余韻を味わいたいと思った。
少し遠回りになるが確かこのままの方向にも駅があったはずだ。
いつもと違う路線だが、興奮を覚ます為にもしばらく歩く事にし、来た道と逆方向を選んだ。初めて通る道だった。
一つ通りを越すと、オフィスビルは消え、普通のマンションや邸宅が並び始めた。生活感たっぷりな商店や小さな病院があった。
ふと気づいた。石坂家・・・ぽつりとオフィスビルの谷間にあってなんとなく場違いというか異質な空間に思っていたが、
それは逆で、あのあたり一面は宅地だったのではないか。石坂家を取り囲むようにオフィスビルが浸食してきたのだ。
ふと、常務は何の野暮用でこの街へ来たのだろうか。一瞬気になった。だがすぐに鍵盤と美央の残像が浮かぶ。
逆方向から帰宅を急ぐ何人かとすれ違った。

「こう見えても俺はピアノ習ってるんや、君ら知らないだろうが、俺は白と黒の鍵盤の違いも知ってるぞ」
軽くスキップを踏み、ひとりひとりに言いふらしたい気分だった。
街灯に虫の集団が群がっていた。梅雨を通り越して夏がやってくる予感がした。

              

翌朝、いつもより1時間早く家を出た。残したままのファイリング作業をやらねば。
9時前後では戦場のような地下鉄ラッシュや、従業員で溢れかえる船場商事のビル周辺も7時半では嘘のように閑散としていた。
(果たして入り口は開いているのか)
不安に思いながら歩いたが、前を歩く数人が従業員出入り口のドアに吸い込まれて行った。

「あらお早う珍しい、どうしたのですか」
営業事務の前村加奈子が拭き掃除をしていた。前村もプロジェクトのメンバーだ。
入社は1年先輩だが歳は二つほど下なはずだ。
「前村さんこそいつもこんなに早いんですか」
すると、拭き掃除の手を止め、
「今朝の地下鉄や従業員出入り口とかエレベーター、どう感じました?」
反対に訊いてきた。
「ええ、あまりにも静かなんでびっくりでした」
「でしょう、私8時半から9時にかけてのあの殺人的なラッシュ。我慢出来ないんです。その事に比べたら早起きぐらい全然平気で」
「確かに・・・あ、拭き掃除手伝いましょうか」
「いい、いいって。もう終わるところやから、それより昨日早く帰った為にプロジェクトの仕事残ってるんでしょ?」
(しっかり観察されてる・・・)
「はい、まあ」
その後ふたこと三言会話を交わした後、作業に没頭して行った・・・・・

「森野君、この資料を国光常務まで頼む」
川村課長に呼ばれたのは午前10時を廻っていた。
川村の席に行くと
「常務から君に持ってくるよう内線があった。すまんが頼まれるか、プロジェクトの資料や」
(来た)と思った。
用事にかこつけてレッスンの状況を訊きたいに違いない。
「承知しました7階ですね」
「え、なぜ知ってる?あ、前もこういう会話したような気がするなぁ・・・」
「え、覚えてられないんですか」
言おうとして呑み込んだ。課長の頭はプロジェクトの事で満杯なはずだ。
ジャンニ・ビアンコがいよいよ来日する。そして隠密的に船場商事東京支社で逢う事が決定していた。

常務室をノックする。
「どうぞ」中から黄色い声がした。
「ん?」
先日の時は居なかった女性秘書が出迎えた。
「森野さんですね、お待ちしてました。どうぞ」
「やっと来たか、待ってた」
奥から国光の声が響いた。
「常務お早うございます」
「お、おう」
照れたような顔を向け、「まあ座れや」
入り口付近のソファーを勧めたあと
「あ、こっちがええ」言いながら奥のソファーに座った。
入り口付近だと秘書の席に近かった。
「じゃあプロジェクト資料の方を」
わざと“プロジェクト”の言葉が聞こえるように張り上げていた。
「ではさっそく」
うやうやしく差し出し「秘書って居られたのですね」
小声で訊いた。
「あぁ、彼女は夕方4時までや、子供さんの迎えがな」
「え、子供さんが」
居るようには見えない若い感じがした。
ちらりと盗み見する。机に向かってワープロを叩いていた。
「で、どやった」
案の定、昨夜の事を訊いてきた。

           つづく

※ 言うまでもありませんが、
当記事は フィクションです
万が一、実在するいかなる個人、団体、地名、とも 一切の関係はございません 

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