小説の杜

旧 kazami-k 小説の杜から越して来ました

狂二4 NINE.sec その30

100メートルの計測会が行われたその3日後。 いよいよ関西の大学陸上シーズンの幕開けともいうべく大学選手権春期大会が始まった。 当初の計画ではもちろん河本が出場するはずの大会だったが、山根監督のいう嬉しい誤算とやらで自己記録を更新させた篠塚、岡田、加藤ら三名の出場だった。 河本は5月に行われる実業団大会への参加が正式に決定した。 先日に行われた計測会では、河本の9秒63に隠れて目立たなかったものの 篠塚主将10秒21、加藤君10秒33、岡田君10秒40と学生レベルとしてはまずまずの記録を出していたのだった。 ある程度のレベルに達した者にあっては、わずかゼロコンマ1秒を短縮するため、かなりの努力を余儀なくされるという。短距離の世界にあってはなおのことで、それが山根監督を驚かせた理由の一つでもある。 彼ら三名とも、それぞれ高校時代は県大会で優勝するなどトップクラスの成績を誇っていたという。だが大学進学後3年間、思うように記録が伸びず苦しんで居たのだった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして大学選手権関西大会--------。 三名とも無事予選通過を果たし、当日行われた決勝において、なんと
篠塚が自己ベストをさらに更新する10秒18で優勝。 加藤君も同じく10秒30の二位。岡田君10秒38といずれも自己記録を更新の三位。 なんと1、2、3の表彰台を独占するという北摂大陸上部始まって以来の快挙を達成したのだった。

さらに篠塚の場合、ジャパン陸上への出場権を獲得したコトが山根たちを喜ばせた。 東京で開催されるジャパン陸上選手権は、モスクワで行われる世界陸上の出場資格選考会を兼ねた大会でもあった。河本も実業団大会を制した場合、ともに出場することになる。 東京や試合についてはまったく不慣れ、すべてが初体験な河本にとっては、経験豊富な篠塚は何よりの心強い味方なのだった。

・・・・・・・・・・・・・ 「寺島さん、彼ら三名の自己記録更新。じつは河本君のおかげなんです」 試合会場からの帰りの車内、隣に座った鈴木圭子がぽつりと漏らした。 「河本君に刺激されてとか」 「えぇそういった精神的な部分も大きいです。けど別のところも。。。」 言葉が途切れ、鈴木はうつむいた。 「え、何ですの」 「ここから先、監督には内緒でお願いです」 鈴木はいたずらっ子の表情で笑った。山根監督は向かいの席で三浦顧問と熱心に話し込んでいる。 「えぇ約束します。何がありましたの」 そう言うと何か吹っ切れたような笑みを浮かべ 「河本さんの場合、夜中も独自の筋肉トレーニングを続けてられたんです。いつしか篠塚主将らも。。。」 「え、夜中にいつから?」 「河本さんの場合10月にやってこられた時からずっと。篠塚さんらは11月のはじめごろの合流だったと思います」 「え、でもなぜ貴女がそれを」 夜中のトレーニングを何故知ったのだろう。ふと軽い嫉妬にも似た疑問が沸いた。 「えぇ。。。じつは彼らの男子寮と、私の女子寮との間に中庭があって。。。」 「なんだそういうコト」

女子寮暮らしの鈴木。。ある日の深夜。中庭の陰から何やら空気を斬り裂くような不気味な音が聞こえ。。。カーテンの隙間から恐る恐る覗いてみると、なんとそこには突き、蹴りなどの稽古に励む河本の姿があったという・・・ 「そらあもうビックリで」 「あぁあれね、河本君の場合ずっと続けてきた習慣らしいです。そうかやっぱ続いてたのかぁ。しかも夜中とは」 「えぇ、ただびっくりで。それより何より睡眠時間を削るのは良くないので即刻止めるよう次の日説得したんです。でも今さら習慣は簡単に止められないって。

すったもんだの挙げ句、じゃあ夜11時半までに終わらせる。と時間を約束してもらったんです」 「へぇーそんなことが」 鈴木は何かを思い出したのか、くすっと笑った。 「あ、どうしました」 「あいえ失礼。で、篠塚主将や岡田君加藤君の三名。。。 結局そのトレーニングが効を奏したらしく、股関節が堅いのが悩みの種だった篠塚がすっかり克服してしまったり、岡田君や加藤君も従来のトレーニングでは身に付かなかった箇所の筋肉がどうやら付いてしまったようで。今日の記録更新もその現われではないかと確信してます」 「なんとまあそんなコト」 「いつしか監督が、”あ”っちゅう間のゼロコンマ1秒。その短縮に命を削るとです。ておっしゃったこと覚えてられます?」 「えぇもちろん」 忘れもしない。そういって山根は泣き崩れたのだった。いくら酔っていたとはいえ、熱い心を持つ男意気に感動したものだ。 「あの時、(彼らが削っているのは睡眠時間なんです)ってつい突っ込みを入れそうになり。。。慌ててしまいました」 そういって鈴木はまたも笑ったが、 「でもそれって次の世代の為、練習メニューにも取り入れるべきじゃないかなぁ」 「えぇ確かに。今日確信致しました。機会をみて山根に進言しておきます」 言いながら鈴木は向かい側に視線を向けた。 その横顔はハっとするほど美しいものがあった。 こうして彼女と親しくあれこれ接してられるのもあと少しのあいだなのか。 ふとそのコトに気づくや、何やら寂しい気持ちが芽生え始めていた。

※ 「先日は画像ありがとうございました。さっそく編集長にも」 「それはどうも、で反応はどうでした?」 「いやあもうそれはそれは社内じゅう大騒ぎで一種のパニック状態に。いきなり9秒63だなんて、おかげさまで。。。」

文芸新春社編集部 三好菜緒子。いよいよ始まる実業団大会。その取材にやって来ていた。 相変わらずのバッグを抱え、スニーカー姿の彼女独特のスタイルはいつも通りだったが、今回はカメラマンを従えている。 「おかげさまで、何ですの」 「あ、失礼。おかげさまでこうしてカメラマン同行の出張が許され、こちら新春者専属の浅田さん」 と、カメラマンと紹介され、名刺を交わす。

「それはどうもおめでとうございます。でもまた携帯に呼び出されたりするんじゃないですか」 前回の時は尋常じゃない多忙ぶりを見せつけた。 「あ、ご心配なく」 そう言いながら三好はポケットからスマートホンを取り出した。 「電源オフを許されました。その代わり。。。何が何でもモスクワへの第一歩をしっかり取材してこい、土屋の命令です」 「なるほど取材ねぇ」

会場は拍子抜けするほど閑散としていた。彼女ら以外取材陣の姿はまばらだった。

「あらご無沙汰です」 受付を済ませた鈴木がやってきた。 「え、マネージャーの鈴木さん?どうもご無沙汰です。いよいよですね」 「えぇ、ようやくです」 そういって彼女たちは競技場の空を見上げた。 五月晴れのまぶしい青空が広がっていた。

閑散としていた競技場周辺や観客席。 だがその数時間後、騒然とした歓声と興奮の熱気に包まれようとは誰も予想だにしなかった。 一部の関係者を除き。

つづく

※ 言うまでもありませんが、 当記事は フィクションです 万が一、実在する、あるいは良く似た、いかなる個人名、団体名、地名、出来ご

と、などが出現しようとも 一切の関係はございませんので。

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